新书介绍
熊玉娟(江苏省淮安生物工程高等职业学校教师)
2017年1月20日,赵平教授的又一部著作——由日本“连合出版”社出版的散文集『私の宝物』——将在日本正式发行。这是一部由中国人用日语撰写并在日本发行的、弥足珍贵的散文集。
赵平教授曾经在日本留学并工作。17年以前回国,在江苏省连云港市的淮海工学院担任外国语学院院长,2102年年底到贵州支教,也曾担任过贵州财经大学外国语学院院长。目前是贵州财经大学、贵州大学、贵州师范大学的英语硕士、日语硕士生的导师。
2004年初,赵平教授因癌症晚期住院,在与肿瘤“决斗”的岁月里,他不断笔耕,直到2016年底为止的12年内,赵平教授一共出版了专著、教材、译著50部,“一跃”成为日语界的高产作者之一。
以下是赵平教授为今年1月20日将在日本上市的散文集『私の宝物』写的“后记”。从中,我们或可从中看出赵平教授从少年青涩走向今日成熟之轨迹。
あとがき ― もう一つの実話 ―
この作品集に収録した小品はすべて私の実体験に基づくもので、いわゆるノン・フィックションと言えるものです。
かつて私は、明石市役所に「文筆家」の在留カードを発行して頂いたことがありますが、自分では「文筆家」ではなく「物書き」と言われる方が相応しいと考えています。「文筆家」と決めつけられると、想像で物語を作るというニュアンスが強くなりますが、それに対して、非才な私の描く物語はほとんど実体験から生まれたもので、「創作」というより日常生活の記録に過ぎません。というわけで、この小品は事実の一側面の記録、という観点からお読みになって頂きたいと思います。
ところで、私はどうやって「物書き」になったのか、我ながらずっと不思議に思ってきました。つくづく考えてみると、きっかけは二つあったようです。
一つは、この作品集に収録した「四月八」の執筆です。
腕白盛りの十五歳のとき、私は崖っぷちから足を踏み外し真っ逆様に転落してしまい、頭蓋骨陥没という大けがをしました。一命は取り留めたものの、ずっと重度の記憶喪失に悩まされ続けました。新しい知識がなかなか頭に入らないだけでなく、それまでの出来事も、ものの見事に頭から消しさられてしまったのです。
しかし、吉凶は糾(あざな)える縄の如しです。私は、二十八歳のとき初めて癌と出会い(四十代で、再び巡り会うことになります)、入院して手術や化学治療などを辛抱しながら受け、毎日死に神とにらめっこしていました。そうこうしているうちに、薬の副作用で毎日繰り返される激しい嘔吐によって神経が変に刺激されたのでしょうか、いつの間にか引き潮の砂浜で徐々に姿を現す小さな岩たちのように、昔の出来事がぽつりぽつりと細部まで鮮明に蘇ってきました。
しかし、そのお陰で、私が物書きに生まれ変わったのかというと、そうではありません。その時の私は、生きていきたいという気持ちだけで精一杯で、ペンを取り「ものを記録する」という「優雅な」気持ちには到底なれませんでした。
その後、精神一到何事か成らざらん、なのかどうか分かりませんが、生きようという強い意志で不思議と癌を乗り越えることができ、それだけでなく日本に留学することまでできました。博士課程後期に入ると、私は神戸市菅原奨学金を受けることができました。同時に奨学会の内部雑誌『青春in神戸』の編集員にも選ばれ、毎月作品を一点、日本語で寄稿することになりました。最初に決められたテーマは、「故郷の紹介」です。
締め切りが近づき、何を書いたらいいのか全くアイデアが浮かんでこなかった私は、奨学会の幹事に電話を掛け、相談しました。そして、次のように言われました。
「あまり肩の張ったことを考えずに、昔の出来事や自分の実体験を書いたらいかが?」と。
その瞬間、脳に稲妻が走ったように一つのアイデアが浮かんできました。よし、せっかく蘇った昔の記憶を現在の出来事と結びつけて書こうじゃないか、と。そこで帰りの電車の中で考え出したのは、故郷の苗族の歌垣、「四月八」の祭りにまつわる実話でした。
雑誌に掲載されたこの小品は、図(はか)らずも留学生の間で好評でした。そして、ある留学生がアメリカの大学に進学したとき、わざわざその雑誌を持って行き、ある好事家に見せました。そのアメリカ人も日本語ができたため、「四月八」を英訳し、『Today』という雑誌に運良く掲載されました。評判も良かったそうです。
それを聞いて大いに気を良くした私は、その作品を中国語に訳し、中国語の新聞に投稿しました。結果として、一つの小品が、日本語、英語、中国語で活字になったのです。
その後私は、主に日本語で、エッセーや短編などを書き続けてきました。それらの幾つかは後ほど、中国の教科書などにも掲載され、日本語を勉強する大学生の課外読み物になりました。
ここでもう一つの「物書き」にまつわる小話を申し上げなければなりません。小学校二年生のときの話です。一人で留守番をしていた私は、魔が差したのか、父の引き出しをこっそりと開けました。引き出しには、錠が掛かっていましたが、安物だったのか、尖ったドライバーでいとも簡単に、全く痕跡も残さずに開けることができたのです。
引き出しは、父が通帳やお金を入れている我が家の「金庫」ですが、私は別にお金が欲しくて開けたわけではありません。ただ、父は私から見ると、どうやってお金を使うのか分からないほどの倹約家でしたから、その引き出しにどんな蓄財がしまってあるのか知りたかっただけなのです。
残念ながら引き出しにはそれほどお金は置いてなく、ばら銭だけがきちんと並べてありました。側には通帳が一冊ありました。開いてみると、数字は三桁しかありません。当時、父の月給は三桁でしたから、たいして貯金がないことはすぐ分かりました。そして引き出しには、分厚いノートに挟まれた新聞の切り抜きがありました。抜き出して見ると、全部父の書いた短いもので、二、三読んでみましたが、面白くありませんでした。ノートに書かれた日記はどうだろう。開いて読んでみると、それは非常に面白いものでした。最初の数ページは、母との恋愛の様子でした。内容はともかくとして、言葉遣いは、革命のスローガンみたいなものもあれば、通俗的なおセンチなものもありました。熱烈な恋愛描写でジーンとする場面もいくつかありました。日記で見た限りでは、若い時の父の夢は国家の幹部ではなく作家になることだったようです。
日記を読み進むと、父の作った詩が出てきました。その中の一つは短くて、内容も理解しやすいものでした。詩の最初の部分では、春の川辺で花を眺めたりするなどの景色を歌い、途中で突然「深みのある思索的な表現を多くして、美しく飾った言い回しを少なめに」という作風に変わりました。それは、景色を詠吟しながら哲学的で教育的な内容も加味し、極めて意味深長で、余情たっぷりの佳作でした。その時、国語の先生の宿題がまだできていないことをふと思い出しました。やったぁ!天の贈り物じゃないか!この詩を丸写しにして宿題として出したら、間違いなく国語の先生を驚かせることができる!先生は、口をあんぐりと開け、驚き桃の木山椒の木、ブリキに狸に洗濯機だろう。善は急げだ。私はすぐさま一字一句、間違いなく写し、引き出しを元に戻し、錠を下ろしました。
翌日、私は浮き浮きと学校へ急ぎ、ノートを先生に渡しました。後は先生の最高のお褒めを待つだけです。
ところが、待てど暮らせど、国語の先生のお褒めが来ません。三日、四日、私はとうとう落ち着きがなくなり、ある種の怒りさえ覚えてきました。普段なら、「お前のようなのろまが何のでたらめを書いてやがる」と叱られても仕方がないのですが、今回は、天才的な閃きに満ち満ちているはずです。これを無視してしまうなんて、先生は教育者としての素質が足りなすぎるんじゃないかと、心の中で不平不満を募らせているところへ、クラス委員がやって来て、「先生がお呼びだ、事務室へ行け」と伝えてくれました。私の不満の燻(くすぶ)りはたちどころに消えてしまい、喜びが全身の隅々にまでみなぎりました。
事務室のドアをそっと押し開けると、びっくり仰天!先生と向かい合わせに座り、眉をひそめているのは、父ではありませんか。先生は私をそばに立たせ、私の練習ノートを取り出して詩の書いてあるページを開きました。
「これ、君が書いたの?」
このとき、私はコクリと頷くほか何もできませんでした。先生はノートを父の前に広げ、とげとげしい口調で言いました。
「お父さん、見てください。とんだでたらめだということは、一目瞭然でしょう。文法もめちゃくちゃ、漢字も間違っていて内容的にもつじつまが合いません。新聞か何かから剽窃して組み合わせたものでしょう。何が『深みのある思索的な表現を多くして、美しく飾った言い回しを少なめに』ですか。どれ一つを取り上げても美しく飾った言い回しばかりじゃないですか。……ノートをお持ち帰りください。息子さんに書き直してもらって、明日改めて持って来させてください」。
父は顔を真っ赤にして、「申し訳ありません。私の教育が悪かったのです。書き直させますから……」とひた謝りに謝りました。そして、憮然としている先生に深々と一礼をしてから、私の手を引っ張り、事務室を出ました。父は無言のままさっさと足早に歩きました。私はこっぴどく折檻されることを覚悟しました。
運動場まで来ると、父はようやく口を開きました。
「お前、わしの日記を盗み見たんだな……」。これまでになく、厳しい声でした。
私は、コクリと頭を縦に振りました。全身が凍り付きました。
父は手を挙げました。私は大げさに悲鳴を上げる準備をしました。そうすれば幾分、手加減をしてもらえると計算したのです。
父は上着の上ポケットからタバコとマッチを取り出して、においを嗅いでから火を付け、しばらく何か思案していましたが、意外にも吃(ども)りながら言い出しました。「ま、まあ、いいか。帰ってから自分で頑張って書き直せ。先生があの詩をお前の書いたものではないと一目で見破ったのも当たりまえだよ。お前はまだ小学校二年の餓鬼にすぎないだろう。あんなレベルの高い詩なんか書けるわけない」。
私はきょとんとして父を見つめました。父は、バツが悪そうに「へへ」と笑って、続けました。
「実を言うと、あの詩の格調は、本当の作家のレベルに達した者でなければ分からないんだよ。お前も大人になったら、この詩の繊細さや深さなどが分かるはずだ。まあ、今お前にそんなことを言ったって分かりっこないだろう。それにしてもお前、パパに負けずに頑張れよ。頼むぞ。パパが革命のためになり損なった作家にお前がなって、更に格調の高い作品を書き、あの先生に一矢報いる、いや、感心して頂こうじゃないか」。
私は心の底から感動して拳をぎゅっと握りしめました。血がたぎるのを覚えました。
その後、私は急に文学を読み耽るようになり、子供の読み物から始め、次第に『西遊記』や『三国志演義』、『紅樓夢』などの古典も渉猟し、さらにロシアやアメリカ文学へと範囲を広げていきました。倹約家の父ですが、本だけはけちったことがありません。小学校三、四年のとき、父と本屋へ行くと、いつも店員に「まだ子供なのに大人の本を読めるの」と驚かれました。そんなとき、父は得意満面でした。その満足げな表情は、私を更に遠くまで、読書の世界へ誘ってくれたのです。
しかし大人になってからも、私は相変わらず父の詩の良さが分かりませんが、歳と共に父のことをもっと理解し、父の凡庸さまでも愛せるようになってきました。
このたび小林やす子氏のご支援の御陰でこの作品集が恙なく上梓でき、読者の目に触れるようになり大変喜んでおります。しかし、私より百倍も喜びが大きく感謝の念が深いのは、きっと他でもない、今、末期癌の床にいる九十三歳の父であるに違いありません。父は日本語が読めないにもかかわらず……!
最後になりますが、出版を引き受けてくださった連合出版の八尾正博社長、作品紹介を書いてくださった阿倍治平氏、表紙の装丁をしてくださった三村純氏、刊行にご理解を頂きました橘雄三氏、白井一男氏に厚くお礼申し上げます。また制作に携わってくださった、DTP/レイアウト・石川薫さん、、校正・森敬子、挿絵・遠藤良一の皆さんに心よりの感謝を申し上げます。小林運河さんには、企画・校正・編集など全ての面に渡ってお世話になりました。ありがとうございました。
二〇十六年十二月 趙平