(天声人語)読書スランプの時代
2017年2月28日05時00分
読書スランプとは初めて聞く言葉である。『本の雑誌』3月号の特集で、批評家や編集者などプロの読み手たちにも、どうにも本が読めなくなるときがあることを知った。文字を追うだけになり、頭に入らずに前のページに戻ってしまうという▼「同じ分野の本ばかり読んで疲れてしまう」「すごい本に出会って打ちのめされる」など、不調の理由はさまざまである。スランプ時には野球のデータ集や列車の時刻表で気分転換するといった対策も述べられている▼とはいえスランプに陥るほどの読書家はいまの世の中、少数かもしれない。1日の読書時間が「ゼロ分」の大学生がほぼ5割にのぼることが、全国大学生活協同組合連合会の最近の調査で分かった。平均の読書時間は24?4分で、スマホの平均利用時間161?5分に大きく水をあけられている▼大学生に限らず、幅広い世代で本を読まない人は増えている。娯楽にふれ、情報を得るのはいまや電子画面が圧倒的に優位なのか▼本を読むのはつらいし、内容も忘れてしまう。それでも人は読む。読み取るのは、「無数の人々が体験しその痕跡を言語によってなぞってきた過去」なのだと詩人の管啓次郎(すがけいじろう)さんが書いている。それが未来を切り開く手立てになるのだと。知識は汲(く)んでも汲み尽くせない。『本は読めないものだから心配するな』の書名に勇気づけられる▼小さな画面に疲れたら、どうもスマホスランプだと暗示をかけてみてはいかがだろう。本の世界が待っている。
(天声人語)候補者、男女を均等に
2017年2月27日05時00分
公開中の映画「未来を花束にして」は1910年代の英国で参政権を求めて闘う女性たちの物語である。終盤で各国がいつ女性参政権を獲得したかが流れる。1918年ドイツ、20年米国、34年トルコ、44年フランス……。あれっ、日本がない▼理由を問い合わせると監督から、すべての国を表示することはできなかったとの趣旨の返事が来た。もっとも省かれても仕方ない面はある。女性参政権は敗戦直後に占領軍トップ、マッカーサーの指令で実現した。自らの手でつかみ取ってはいない▼戦前は投票はおろか、女性が政治に関わることすら法で禁じられていた。女性の政治運動は生理的にも心理的にも「自然の理法に反しておる」との演説が貴族院でまかり通る。戦後の外圧を待たざるをえなかったのが悲しい▼さて今、我が国会からの朗報である。国会や地方議会の選挙で男女の候補者の数をできるだけ「均等」にするよう政党に努力を求める。そんな法案が与野党で合意され、今国会で成立しそうだという▼候補の一定割合を女性にせよと義務づける制度は多くの国にある。周回遅れのうえ、義務でなく努力なのは物足りないが、女性の政治参加を進める大きな一歩になりうる。次の衆院選で各党の努力はいかに。ぜひ期待を裏切らないでもらいたい▼フランスの地方議会では男女ペアの候補に投票する制度が始まっている。欧州議会では幼子を連れ議場に入る議員がいた。日本でも大きな変化が起きうる。政党が本気ならば。
(天声人語)便利さの陰で
2017年2月26日05時00分
明治期の小倉には「伝便(でんびん)」という走り使いの仕事があったそうだ。辻辻に立って手紙や荷物を運ぶのを請け負い、鈴を鳴らしながら届ける。静かな雪の夜は「伝便の鈴の音がちりん、ちりん、ちりんと急調に聞(きこ)えるのである」と、森鴎外が小説『独身』で書いている▼郵便と違って、その日のうちに届くのが便利だったようだ。時は流れて、品物を注文し、当日の夕方に受け取れるのが当たり前になりつつある現代である▼もっとも伝便の昔と異なり、便利さがどう支えられているのかが見えにくい時代かもしれない。インターネット通販のあまりの普及にヤマト運輸の現場が疲弊しているという報道に触れ、日々のスマホでの買い物を振り返った▼ヤマトの労組は春闘で、運ぶ荷物の量を抑えてほしいと求めており、会社側も協議に応じるという。賃上げでなく荷物減らしの異例の要求である。人手不足も背景にあるようで「このままいくと日本の物流はパンクしかねない」との労組関係者の言葉が重い▼ネット依存社会はすなわち物流への依存を強める社会である。折しも「明日来る」が社名の由来である通販会社アスクルの物流倉庫で火災が起きた。消火に手間取ったのは、窓の少ない巨大倉庫ゆえである。ここに限らず、工場跡地から物流拠点への転換がじわじわと進んでいる▼便利さを求めるとき、それに見合うだけのコストを払っているのかも考えてみたい。どこかで誰かに無理をかけるような仕組みは、いずれ行き詰まる。
(天声人語)首相夫人の哲学
2017年2月25日05時00分
首相夫人としてどう行動すればいいのか。安倍昭恵さんは、かつてローラ?ブッシュ米大統領夫人にかけられた言葉を大切にしてきた。「自分が何をしたいか、何を得意としてきたかを考え、それを継続してやるのが一番ですよ」▼自著『「私」を生きる』にそう書いた昭恵さんの行動が、国会を騒がせている。大阪府豊中市で今春開校する予定の私立小学校の名誉校長に就くはずだった。学校の建設用地が相場をはるかに下回る価格で国から学校側へ売却されていたことが発覚。昭恵さんは就任を辞退した▼この学校は、教育の要として「天皇国日本を再認識」「教育勅語素読」などを掲げる。〈我が臣民克(よ)く忠に克く孝に億兆心を一(いつ)にして〉。系列の幼稚園では園児が大きな声で教育勅語の一節を唱和している。テレビ東京が報じたその映像を見て驚愕(きょうがく)した▼「『安倍晋三記念小学校』は私自身も驚愕した。連続してお断りしたにもかかわらず、名前を使われたことは遺憾だと抗議した」。寄付集めに自身の名が使用されたことについて、当の首相はそう答弁した▼国有地売買をめぐる経緯には不明朗な点が少なくない。折衝の記録は公開すべきだと思うが、財務省は捨ててしまったという。残念極まりない▼これまで「家庭内野党」を自任した昭恵さんである。原発の再稼働に慎重で、被災地の防潮堤に疑問を呈した。学校で教育勅語を唱えさせる――。本当に「何をしたいか、何を得意としてきたか」を考えた結果なのだろうか。
(天声人語)サムスン茫然自失
2017年2月24日05時00分
数年来、サムスン製のスマートフォンを愛用している。使い心地もよい。だがここに来て画面に触れるたび、先行きに一抹の不安を覚えるようになった。財閥を率いる李在鎔(イジェヨン)サムスン電子副会長(48)が逮捕されて1週間になる▼「サムスン茫然(ぼうぜん)自失」「人事採用オールストップ」。韓国在住の友人に、いま雑誌の最新号に並ぶ見出しを教えてもらった。日本でも東芝の大揺れに驚きを抑えられないが、サムスンが韓国に与えた衝撃はその比ではないらしい▼逮捕された李氏は創業家の3代目である。日本語も堪能で、留学した慶応大では「日本の産業空洞化」を研究テーマに選び、修士号を得た▼留学前にはソウル大学で東洋史を専攻した。在学中に馬術の国際大会で銀メダルに輝いた。その縁かどうか今回の事件でも、朴槿恵(パククネ)大統領の支援者の娘に高価な馬を贈ったという疑惑がもたれている。政治権力と巨大財閥のもたれ合いの根深さをまたしても見せられた気がする▼つくづく感じるのは、韓国におけるサムスンの圧倒的な存在感である。世界に30万人もの従業員を擁し、グループ全体で韓国経済の2割を支えるといわれる。急速なIT化をもたらし、受験や就職の競争熱も高めるなど、よくも悪くも韓国社会の航路を決めてきた▼韓国の人々が折々に自国を「サムスン共和国」と呼ぶことを思い出す。一財閥に依存しすぎた構造を自嘲する言葉である。暮らしの隅々にあふれるSAMSUNGの文字に人々はいま何を思うだろう。
(天声人語)江戸っ子貫いた清順監督
2017年2月23日05時00分
フィリピン沖で輸送船が米軍に襲われ、兵士は海に投げ出される。漂流した後に助け出されたが、船上でこときれた仲間たちの水葬を目撃する。「タータター」と響くラッパと、海にどぶんと流される遺体。悲惨に潜むこっけいを脳裏に刻んだのが、後の鈴木清順(せいじゅん)監督である▼東京?日本橋に呉服商の長男として生まれ、本所で育つ。江戸の文化を明治維新が滅ぼしたという持論を曲げず、上野公園の西郷隆盛像に納得しなかった。「僕が都知事になったら(略)一心太助か葛飾北斎の銅像を建てるね」。自著で歯切れよく語った▼邦画界の王道を歩んだわけではない。日活時代は娯楽作品を型通りに撮ることをしなかった。試写では上司から「難しすぎる」との酷評も。13年働いた末に契約を打ち切られてしまう▼独特の美学が全面的に花開いたのは1980年の『ツィゴイネルワイゼン』。筆者も公開数年後、映画館で白日夢のような映像に圧倒された。たぐいまれな色彩美と無常観に支えられた作品世界が熱狂的なファンをつかんだ▼もうひとつ忘れがたいのは、TBS『ムー一族』で見せた役者としての演技だ。「風采のあがらない金持ち」という微妙な役どころだったが、痩身(そうしん)とやぎひげをいかしてひょうひょうと演じた。プロデューサーからは「無欲の勝利」とほめられた▼晩年は東京の下町で妻と暮らした。隅田川沿いを車椅子で散歩する姿を近所の人が時折見ている。享年93。江戸っ子らしい洒脱(しゃだつ)さを生涯失わなかった。
(天声人語)恋するネコたち
2017年2月22日05時00分
恋の季節がやってきた。ヒトではなくネコの話である。「春の猫」「うかれ猫」「猫の妻」「猫さかる」。恋に突き動かされるさまをとらえた季語を並べてみると、不思議と寒さがやわらぐ気がする▼俳人たちもこの時期のネコたちに魅せられてきた。しかし、句に詠まれたネコたちの熱情は、科学的にどう評価できるのか。イヌやネコの行動に詳しい帝京科学大学の加隈(かくま)良枝准教授に講評をお願いした▼たとえば、芭蕉なら〈麦飯にやつるる恋か猫の妻〉。「恋やつれと言うのは、ややオーバーでしょうね。発情期は食欲が一時的に減退し、体重が減る。シンプルに受け止めるべきでしょう」▼情熱的な躍動を詠む名句もある。芭蕉は〈またうどな犬踏みつけて猫の恋〉。子規は〈おそろしや石垣崩す猫の恋〉。誇大だろうか。「いえ、動物学の理にはかなっています。発情のスイッチが入るとネコは本能の命じるまま。人間なら理性で抑える一線も越えて行ってしまう」▼恋の名句を一つだけ選ぶとしたら、筆者は〈うらやまし思ひきる時猫の恋〉を挙げたい。越智越人(えつじん)の句で、師匠の芭蕉も激賞している。恋の大胆さをうらやむ句かと思いきや、深追いを避ける冷静さを詠んだとみる説もある。いずれにせよ、ネコの恋には古来、ヒトの詩情を湧きたたせる何か特別な魅力があるようだ▼きょう22日はネコの日である。〈恋猫や世界を敵にまはしても〉大木あまり。恋するときの冷静と情熱の間をネコたちが私たちに教えてくれる。
(天声人語)花粉症ゼロ社会という夢
2017年2月21日05時00分
佐藤愛子さんの話題作『九十歳。何がめでたい』によると、花粉症をむかしは単に「春先のハナ風邪」と呼んだ。「花粉症は年を取れば治る」という友人の言葉を支えに毎春を耐え、91歳でピタリと止まったという▼当方も花粉と闘って久しい。この時期は外出にマスクが欠かせない。素人の思いつく究極の解決策は花粉の飛ばない木へ植え替えることだが、夢物語なのだろうか。神奈川県自然環境保全センター(厚木市)を訪ねた▼「無花粉スギは1992年に富山市の神社で発見されました。品種改良が進み、もう実際に植えられています」と主任研究員の斎藤央嗣(ひろし)さん(47)は話す▼無花粉スギ発見に触発された斎藤さんは、無花粉のヒノキを探して2年間、神奈川?丹沢山地をめぐった。高枝ばさみを手に1本ずつ枝を揺らして花粉の飛び具合を見る。大量の花粉を浴びて計4074本を調べ、ついに探し当てた。いまは実用化に向けた研究が続く▼最近「鼻うがい」という治療法をよく聞く。鼻孔の片側に液体を注入し、逆の穴から流し出す。広告映像を見てややひるんだが、冒頭の佐藤さんの著書にも似た治療法が紹介されている。洗面器に塩水を張り、顔をつけて鼻孔から吸い上げ、のどからはき出す。いかにもつらそうではあるけれど、この治療法を長く実践したそうだ▼〈花粉症ゼロ社会〉。自民党が昨夏の参院選で掲げた公約を思い出す。発症者の一人としては賛意を表したいものの、はてさていつ実現することやら。
(天声人語)ミッフィーの瞳の奥に
2017年2月20日05時00分
オランダの絵本作家ディック?ブルーナさんは20代半ば、斜め向かいに住むイレーネさんに恋をした。彼女が通りかかる時間帯に自宅バルコニーで絵筆をとる。イヌ好きと知れば自分も飼って散歩に励んだ▼結婚を申し込むが断られる。「芸術家を気取るのもイヌを利用するのもどうかと思った」。傷心の1年後に再び申し込み、ようやく思いが通じた▼絵本シリーズ「ミッフィー(うさこちゃん)」のほのぼのとした作風からは想像しがたいが、驚くほど頑固な面があった。家業の出版社を継がせようとする父親に反発。無理やり通わされた高校を卒業直前、これ見よがしに退学している▼「とにかく描くことに専念できれば幸せな人。収益や宣伝といった方面には無関心でした」。取材を重ねて評伝を著した本紙の同僚、森本俊司記者(56)によると、晩年まで助手を雇わずひとりで描いた。試作はまずイレーネ夫人に見せる。夫人が首を横にふればお蔵入りにした▼絵本には暴力や流血はおろか口論の場面すらない。10代でナチス?ドイツの侵攻を受け、疎開を強いられた。「ユダヤ人迫害をじかに見て、暴力は人を押しつぶすと知った。その経験が大きいと思います」▼訃報(ふほう)に接して久々に絵本を開いた。よく見ればどのウサギの顔も目は‥で口もとが×である。それ以外には何もない。シンプルな‥と×が余すところなく喜怒哀楽を表す。極限までそぎ落とした線と余白が、強制や威圧に屈しない精神のしなやかさを伝えている。
(天声人語)空飛ぶ女子の20年
2017年2月19日05時00分
スキーのジャンプ競技は、出発地点がラージヒルの場合で高さ140メートルほどになる。東京タワーの大展望台から滑り落ち、時速80キロを超える速さで雪氷の斜面へと身を投げ出すようなもの。想像するだけで足がすくむ▼ジャンプの全日本選手権は1923年に始まった。選手は男子だけ。「女子には無理」という周囲の先入観は長く続いた。国内で女子選手が初めて公式戦でラージヒルを飛んだのは1997年だった。高校3年の山田いずみさんが男子に交じって挑んだ▼当時、女子を受け入れるチームは少なく、出場できる試合もわずか。更衣室はなく、トイレで着替えながら経験を積み重ねるしかなかった。そこから徐々に増え始めた国際大会に、日本から参加するようになった▼女子ジャンプを国内に認知させた山田さんは、ソチ五輪での採用が決まる2年前に現役を退いた。今は日本代表コーチを務める彼女に、引退の花束を渡したのは当時小学6年の高梨沙羅さんである▼その高梨さんが16日、男女を通じてW杯最多に並ぶ通算53勝を達成した。二十歳の若さで6シーズンの勝率が6割、総合優勝は4度を数える。風や雪の自然条件に左右される競技で、この成績は驚きだ▼「あれほど前へ飛び出していくのは、人間業ではない」と五輪金メダリストの原田雅彦さんはいう。絶妙な身体のバランスとひるむことのない意志で、高梨さんは白銀の世界に伸びやかな放物線を描く。その背中に若い女子ジャンパーたちが続くはずだ。
(天声人語)水ぬるむ季節
2017年2月18日05時00分
水ぬるむ季節である。冷水と格闘する辛(つら)く厳しい冬が終わったことを豆腐屋はこう詠んだ。〈けさよりは我が指刺さぬ缶の水春の豆腐と思いあきなう〉。のちに作家になる松下竜一である。『豆腐屋の四季』には生業に根ざす季節感がにじむ▼春はやさしいだけでなく、苦みもあった。鍋物の季節が終わるからだろうか、春は豆腐の売れ行きが落ちたという。〈春嵐砂捲く幾日か豆腐売れず寂しくて満つる海を見に来つ〉▼春一番がきのう、関東や北陸、四国などで吹いた。うれしい響きの言葉ではあるものの、あまりの強風に閉口した方もおられよう。冬のあいだに縮こまった体を揺り起こそうとする目覚まし時計のようである▼職場から浜離宮恩賜(おんし)庭園に歩いてみると、菜の花の鮮やかな黄色が風に揺れていた。結婚式に備えてか、晴れ晴れしい和装で撮影するカップルの姿もあった。風景を春色に染める菜の花は、葉と一緒につぼみや花も味わえる花菜でもある。何ともいえない苦みがいい▼「春は苦味(にがみ)を盛れ」の言葉がある。菜の花だけでなく、ふきのとうや筍(たけのこ)、ウドなどの春野菜である。冬の寒さに耐えて育まれた味わいが活力を与えてくれる気がする。暦を見ると、きょうは二十四節気の雨水(うすい)である。雪が雨になり、溶けた雪が土を潤すときだ▼春を前に入学や就職に胸をふくらませる方もいるだろう。新天地にはたくさんの楽しさや刺激とともに、きっと苦みもある。春の野菜のように未来の力になる味わいもあるはずだ。
(天声人語)金正男氏の毒殺
2017年2月17日05時00分
昨年亡くなったキューバのフィデル?カストロ前国家評議会議長は、世界で最も多く暗殺の標的になったことで知られる。暗殺計画は600を超えたといわれ、猛毒が塗られた葉巻が用意されたこともある▼細菌入りの飲み物やボールペンに見せかけた注射器も検討されたという。歴史を振り返ると、政敵を排除し、権力を得るための毒殺の試みは大昔からあった。14世紀にイタリアの壁画に描かれた暴君は、毒杯を持った悪魔の姿だったという(コラール著『毒殺の世界史』)▼犯行に使われたのは毒のスプレーか、あるいは毒針か。北朝鮮の故金正日(キムジョンイル)総書記の長男、金正男(キムジョンナム)氏がマレーシアの空港で襲われ、殺害された▼正男氏は2012年にも、北朝鮮の工作員とみられる者に暗殺されそうになったという。今回の事件も、異母弟にあたる金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長の指示によるとの見方が強まっている。殺害に関与した疑いで女2人が逮捕された。真相はどこまで解明されるのだろうか▼正男氏は外国に知人が多く、メディアの質問に答えることもあった。取材を続けてきた朝日新聞記者は正男氏の博識ぶりを感じていたという。スマホで絵文字を送ってくるくだけた面もあった。空港で理不尽な死を強いられた無念さを思う▼北朝鮮は、新型弾道ミサイルを発射したばかりだ。今回の暗殺を実行したとすれば、世界に見せつけて恐怖を植え付けようとの狙いがあるのか。毒気にあてられ、冷静さを失うことだけは避けねばならない。
(天声人語)名門企業の巨額損失
2017年2月16日05時00分
先月末に公開された福島第一原発2号機内部の写真には、溶け落ちた核燃料とみられる塊があった。きわめて高い放射線量のために人は近づけない。きょうから小型ロボットが調査に入る予定で、その機体には「TOSHIBA」のマークがある▼東芝は廃炉作業の最先端を担う一方で、米国の子会社を通じて海外の原発建設も進めてきた。その原子力事業で7125億円の損失が出そうだとの発表が一昨日あった。生き残るためには利益を生む事業を切り売りするしかなく、会社の形は大きく変わりそうだ▼損失の遠因は、福島の事故である。より安全性を追求しなければと、世界で原発の規制が強まった。東芝が米国で手がける4基の原発の工事も、予想よりはるかにお金がかかることになった。事故の影響を甘く見たと言われても仕方なかろう▼川崎市の東芝未来科学館をのぞくと、日本初の電気冷蔵庫や洗濯機、掃除機などがずらりと並んでいた。世界初という携帯型パソコンもあった。高い技術を誇った名門企業の凋落(ちょうらく)はいつまで続くのか▼海外メーカーを見ると、独シーメンスは福島の事故後に原発事業から撤退し、仏アレバは不調が伝えられる。東芝の巨額損失は、原発ビジネスがもうかる時代は終わりつつあることを改めて示した▼廃炉への道のりは険しい。会社に逆風が吹くなか、現場で取り組む人びとの胸中を想像する。事故から間もなく6年。起きてしまったことの重さと向きあわねばならない日々が続いている。
(天声人語)サラリーマン川柳と時短
2017年2月15日05時00分
毎年恒例の第一生命によるサラリーマン川柳が30回目を迎えた。これまでの句を眺め感じるのは、働き過ぎをやめられない会社員たちの嘆きである。〈休暇とれ5時には帰れ仕事せよ〉は1993年の作だった▼より短い時間で効率よく働こう。そう言われ続けてきたが、実態が伴わない。おととい発表された入選作にも〈ノー残業居なくなるのは上司だけ〉〈残業はするなこれだけやっておけ〉があった。寒々とした笑いである▼日本社会に根付いた長時間労働を和らげることができるか。政府がきのう発表した規制案では、残業はどれだけ長くとも年間720時間までに抑えるという。月にならすと60時間だが、忙しい月は100時間といった例外を認めるかどうかで意見が割れている▼政府による会議では、ジャーナリストの白河桃子(とうこ)さんが「日本の労働時間は制限速度のない高速道路です」と発言していた。過労が心身の不調につながり命に関わることもある。事故が起きなければ止まらないような運転は本来あってはならない▼省庁の働き方をめぐり昨年出された提言に、こんなくだりがあった。官僚の働き過ぎは付き合いのある民間企業も巻き込み「社会全体の長時間労働のひきがねとなっている」。そんなドミノ倒しは企業社会のあちこちにある▼〈効率化提案するため日々残業〉。そうよまれるような事態では本末転倒だ。〈ノー残業お持ち帰りでフル残業〉も困る。笑いの力も借りつつ、仕事をこなす知恵を絞りたい。
(天声人語)進学を支えるのは誰か
2017年2月14日05時00分
本来なら春からの新生活に、胸をふくらませるときだったろう。資格をめざして大学の推薦入試に受かったのに、お金が払えなくなり入学を取りやめた。そんな大阪府の高校生の投書が先日の声欄にあった▼「将来、私に子どもができたら同じ経験をさせたくない」との言葉がつらい。似た境遇の若者は他にもいるのではないか。日本は大学進学への支援が薄いと言われて久しい。返済のいらない給付型奨学金がようやく創設されるが、対象人数も額も十分ではない▼「福祉は社会で支える考えが広がっているのに、教育は家族の責任のままだ」と教育社会学者の濱中淳子(じゅんこ)さんは言う。数年前の世論調査で「優先して税金を投入すべき分野」をたずねたところ、1位が医療?介護、2位が年金で、教育は3位だった▼経済的に恵まれない人が大学教育を受けられるよう税金をさらに使ってもいいという人は、2割から3割しかいなかった。世論の後押しがなければ政策は動かない。「子の教育にお金をかけられる層と、それ以外の層との格差がますます広がらないか」と濱中さんは懸念する▼奨学金といえど後で返さなければならない貸付金が大部分で、多くは利子まで求められるのが現状である。国立大学の授業料も高くなった。学費や生活費のためバイトに明け暮れる大学生は少なくない▼消費税1%分の税収で大学授業料が全員無料になるとの試算もある。未来の社会に向けた投資を増やす。先送りをしてはならない課題であろう。
(天声人語)リンカーンと分裂
2017年2月12日05時00分
私の名前は安倍(Abe)ですが、米国でときおりエイブと発音されます。しかし悪い気はしません――。安倍晋三首相が日米首脳会談後の会見で語っていた。貧しい家庭の生まれから大統領になったエイブラハム?リンカーンを連想させるからだ▼2年前の米議会演説でも同じ話をしており、米民主主義をたたえる十八番なのだろう。今回違うのはトランプ大統領と並べたことだ。リンカーンが「民主主義のチャンピオン」を象徴し、公職経験のないトランプ氏が選ばれたのは、「民主主義のダイナミズム」を示していると▼リンカーンには、見た目はぱっとしなかったという話もある。「風采の上がらない、声のカン高いリンカーンは、今日なら大統領になれなかったことだろう」とニクソン元大統領の著書にある。歴史に残る演説もテレビ時代には向かないのだという▼長々しい演説よりたった1秒の宣伝文句が力を持つ時代だとニクソンは苦々しく書いている。テレビの人気者から大統領になり、ツイッターを駆使するトランプ氏の面目躍如である▼リンカーンは奴隷制をめぐる南部と北部の対立を憂えていた。「分裂して争う家は立っていることができない」。世論の分裂を意に介さない現大統領と仲良くするのは、家の半分と付き合っているような気がしてくる▼人権や自由貿易などの価値をかき乱しているかに見えるトランプ氏に、言うべきことはもっとあるだろう。抱き合うほどに親しくなったのなら、なおさらである。
(天声人語)女性出所者の100年
2017年2月11日05時00分
東京都心の明治神宮のそばに5階建ての白い建物がひっそりとたたずむ。罪を犯し、服役を終えた女性たちが社会復帰に向けて共同生活を送る。更生保護施設「両全会」である▼先月訪ねたときの入寮者は20代から80代までの16人。入寮すると、まず携帯電話を契約する。仕事を探し、家を借りるのに必要な30万円の貯金に励む。清掃や介護、飲食店のパートの職に就く人が多い▼施設は今年、100周年を迎えた。1917(大正6)年、出所した女性たちの窮状を見かねた教誨師(きょうかいし)が自宅の一角に寮をつくった。生活費を貸したり、縁談をまとめたりする活動が主だった。戦後は薬物使用や盗みを繰り返す人が増えたという▼入寮当初は電車に乗ることもむずかしく、人混みにめまいを覚える人もいる。退寮しても、数年後に戻ってきてしまう例も少なくない。「親から無視され、暴力をふるわれ、家族の情を知らない人が多い。その分、甘言にだまされやすく、犯罪に引きこまれてしまう」と理事長の小畑輝海(てるみ)さん(75)▼しかし就職や結婚をして人生を切りひらく人も確実にいる。施設は依存症を克服する離脱プログラムに力を入れる。将来に向け、自力では就労できない女性のための農場経営の道を探る▼筆者はかつて刑事裁判の取材を担当したが、出所後の人々がどう暮らすのか突き詰めて考えたことがなかった。不幸にして道を踏み外してしまった人々に対する社会の無関心は、この100年間にはたして変わったのだろうか。
(天声人語)フロリダの王宮
2017年2月10日05時00分
今回の訪米で安倍晋三首相が首都ワシントンに続けて向かう先は、南部フロリダ州の高級リゾート施設「マール?ア?ラーゴ」である。トランプ米大統領が所有し、別荘としても使う。首相はここに泊まり、ゴルフをする予定だ▼大西洋に面した広大な敷地に専用ビーチ、プール、舞踏場、ゴルフ場を備える。シャンデリアが輝き、寝室や洗面所では大理石が光沢を放つ。トランプ氏の肖像画もある。英紙に載った写真はさながら王宮のようだ。大統領はここを「冬のホワイトハウス」と呼ぶ▼もとはシリアル食品で財をなした穀物王の娘が1920年代に建てた邸宅である。一目見て気に入ったトランプ氏はまず目の前の砂浜を買い取る。「壁を作って海を見えなくしてやる」と相続人らに迫り、豪邸を破格の安値で手に入れた。よほど壁が好きなのだろう▼ふりかえれば、首相の祖父の岸信介氏も1957年の訪米でアイゼンハワー大統領とゴルフに興じた。プレー後は連れだってシャワーを浴びた。「緊張がほぐれて翌日からの会議がスムーズに運んだ」。得意げに回顧している▼それから60年。就任わずか3週間で悪評を不動のものにした大統領といま親しげにコースを回れば、世界からどんな視線を浴びるのだろう▼この施設は入会金2千万円、1泊20万円以上といわれる。首相一行の滞在費はいったいどちらの国のだれが払うのか。何はともあれ、この状況で心からゴルフを楽しめるとすれば、わが首相も相当な豪傑である。
(天声人語)漱石アンドロイドと会う
2017年2月9日05時00分
「こんにちは。座ったままで失礼します」と手を差し出すスーツの紳士。きのう午後、東京の二松学舎(にしょうがくしゃ)大学でアンドロイドの夏目漱石先生にお会いした。きょうは文豪の生誕150周年にあたる▼まばたきや手首の動きの滑らかさに驚く。低い声で『夢十夜』と『吾輩は猫である』の一節を読み上げてくれた。漱石が学んだ漢学塾を前身とする同大学が、石黒浩?大阪大教授と共同で製作した。声は孫の夏目房之介さんが吹き込んだ▼高えりの白シャツにツイードのスーツ。茶色のネクタイもおしゃれだ。「ご家族に尋ねると、服装には凝るタイプ。旧千円札で有名になった40代半ばの写真をもとに洋装を復元しました」と二松学舎の西畑一哉?常任理事(60)は話す▼大学で英文学を講じた漱石はすきのない洋装で教壇に立った。磨きたての靴。カフスボタンを指先で回し、カイゼルヒゲをハンカチで何度もみがく。「キザ」「こわもて」。教え子たちが印象を書き残している(亀井俊介著『英文学者夏目漱石』)▼実生活では洋服にこだわったはずなのに、『坊っちゃん』や『猫』では、洋装にかぶれた連中に注ぐ主人公のまなざしが冷たい。文学でも哲学でも、西洋と東洋の間で生涯迷い続けた人である。服装への思いにも和洋の揺らぎがあったのだろうか▼漱石アンドロイドはまもなく漢詩の朗読を始める。秋には在校生を集めて創立140年の記念講演に臨む予定だ。いつか粋に羽織はかまを着こなす先生に会えるかもしれない。
(天声人語)「声」100年
2017年2月8日05時00分
文豪ツルゲーネフはツルギエニエフ、作曲家ドビュッシーはヅビツシイと書くべし。そんな一文が1917年2月、本紙に掲載された。いまから100年前の大正6年、記念すべき読者投稿欄の始まりである▼反論が8日後に載る。「日本の発音で正しくは出ない外国音がある(略)ツルギエニエフと文字に御書きになっても、田舎のおぢさんに読まして御覧なさい、何と聞(きこ)えますか」▼これらが載った「鉄箒(てっそう)」はもともと記者の書く欄だったが、読者の投稿を載せるようになった。その後、「声」に看板を改めた。1945年、敗戦の3カ月後に載った「夫よいづこ」は、安否のわからぬ夫を思って妻が泣く。食糧難を見かねて「一握の米を」と農家に呼びかける女性もいた▼投書に鼓舞されることもある。1987年、朝日新聞阪神支局で記者が殺傷された直後の投書が胸にある。「暴力に屈するな」。記者に萎縮せぬよう訴える一文だった▼おととしの夏、国会前で読み上げられた「声」の投稿も忘れがたい。安全保障関連法案に反対して国会前に集う人々の前で、学生がマイクを手に朗読した。特攻作戦で多くの友を失った日々を悔い、政治に声を上げた若者に感謝する内容だった。筆者も耳を傾けた▼「今でも新聞の隅から隅まで目を通しています。色々な人の体験や意見がわかる『声』が一番楽しい」。先日の投書の主は100歳の女性だった。色々な人の体験や意見を世に届ける。100年変わらぬ新聞の存在理由だろう。
(天声人語)保活の国
2017年2月7日05時00分
30代の女性はアパレルメーカーに勤め、公認会計士の夫と暮らす。長女の保育所探しが覚悟していた以上に難航する。義母に反対され、希望する園では園長から冷たくあしらわれる▼昨年11月に出版された辻村深月(みづき)さんの小説「クローバーナイト」である。「保活」の理不尽さを余すところなく描き出す。「私、何やってるんだろう(略)この子と離れるための場所を必死になって探しているのか」と女性は涙を流す▼作中、保活の実例がいくつも紹介される。「職場に彼女が必要です」と上司に手紙を書いてもらう。夫とともに役所の窓口を訪ね、夫婦の懸命さをアピールする▼「少しも誇張はないと思います。実際に見聞きした話に近い」。東京都内で保活中の女性は言う。何をどう努力してよいのか途方に暮れる。「保活は空しい椅子取りゲーム。大好きな仕事を失うかもしれないと思うと目の前が真っ暗になる」▼若い世代が地方から都市部に流れる。女性の活躍の場が広がり、他方で共働きでないと生活が成り立たない世帯も増える。なのに保育需要は満たされないままだ。身も心もすり減らす保活のつらさを、何とか和らげられないものだろうか▼「保育園落ちた日本死ね」。匿名ブログが注目を集めて1年になる。政治が重い腰を上げ、対策を約束した。だが、空しくもしれつな椅子取りゲームが解消したようにはとても思えない。認可保育所の選考結果を伝える通知は、いままさに自治体から各家庭へ届けられつつある。
(天声人語)ナホトカ号20年の海
2017年2月6日05時00分
「ナホトカ」と聞くとロシアの港ではなく福井の海が頭に浮かぶ。20年前の冬、ロシアの老朽船ナホトカ号から流れ出た重油が日本海沿岸を汚した。とりわけ被害が深刻だったのは福井県三国町(現坂井市)の海岸。全国からボランティアが駆けつけた▼「しゃもじにゴム手袋、雨ガッパが必須の装備。週末も通いました」。福井市に住む由田昭治(よしだしょうじ)さん(74)、育(いく)さん(73)夫妻はふりかえる。その2年前の阪神?淡路大震災で何もできなかったという悔いがあった。本業の工務店の仕事の合間に重油と格闘した▼ボランティア向けに駅と浜を結ぶ臨時バスを提案。乗車予約をとりまとめ、バス停に朝夕立った。「宿のないボランティアを自宅に泊めた。でも過剰にもてはやすのは変。バランスに悩みました」▼当時の体験談を読むと、ボランティアをめぐるあつれきは少なくない。住民には炊き出しの負担がのしかかる。「支援の人々に気兼ねして漁に出られない」と漁師が嘆く。ある閣僚経験者は磯で15分だけボランティアのまねごとをして住民をげんなりさせた▼由田さん夫妻の案内で海を歩いた。「船首が見えたのはあの辺り」「水族館のイルカまで油にやられた」。記憶が次々よみがえる▼3カ月に及ぶあの人海戦術は、充足感だけでなく災害支援の難しさも私たちに教えてくれた。支援者の善意と自己満足は紙一重であること。支援者と被災者の思いは時に食い違うこと。日本海を見つめながらナホトカ号の教訓を指折り数えた。
(天声人語)豆大福とサッカー
2017年2月5日05時00分
JR上野駅前の和菓子店岡埜栄泉(おかのえいせん)は創業明治6(1873)年の老舗である。きのう名物の豆大福をほおばった。ほどよい甘さとかすかな塩味が口の中に広がった▼老舗の5代目でありながら、日本のサッカー界を率いた岡野俊一郎さんが85歳で亡くなった。選手や監督、日本サッカー協会長として世界を飛び回る一方、家業に戻れば大福やどら焼きの秘伝を守る。世にも珍しい二足のわらじをはいた▼サッカーとの出会いは大戦のさなか。シューズの代わりに地下足袋で蹴った。日本代表に選ばれるものの、力不足を痛感する。目標に据えたのが1964年の東京五輪。ドイツからデットマール?クラマー氏を招き、蹴り方の基本から学ぶ。本番ではコーチとして8強入りを果たした▼サッカー人生には厚い雲の垂れこめた時期もある。日本代表監督として在任2年、五輪出場を逸して非難の声に沈んだ。監督に必要な包容力が自分には足りない。しょせんは参謀役にしか向かない。悩んで胃に潰瘍(かいよう)の穴が二つ開いたと自著に記す▼その人脈は政財界から国外へと広がり、ワールドカップ日韓共催を実現させた。国際オリンピック委員会(IOC)でも委員として活躍した▼2020年東京五輪の行方を心配していた。「このままでは、観光客を増やすための大会、おもてなしのための大会になってしまう」。昨秋、スポーツニッポンに書き残している。「経費ばかりが膨らみ、何も後世に残らないこと」をほかのだれよりも憂慮した。
(天声人語)きょう立春
2017年2月4日05時00分
「春告草(はるつげぐさ)」と呼ばれる梅は、その花の色合いがかくも豊富である。つやのある明るい紅色は「本紅」であり、つぼみはピンクで、咲くと白い色になる花は「移白(うつりじろ)」と言われる。反対に白から紅色になる「移紅(うつりべに)」もある▼作家の円地文子(えんちふみこ)は、桜のうす紅とも、桃のピンクとも違う紅梅の色が好きだと書いている。「いかにも長い冬の寒さに耐えた花の辛抱強さと凜々(りり)しい美しさが含まれている」。年が明けてから神経がささくれ立つニュースが多いなか、ほころぶように咲く梅を見ると心が落ち着く。きょうは立春である▼古事記や日本書紀には記されていない梅であるが、万葉集には119首の歌が現れ、ハギに次ぐ多さだという。中国から渡来し、もてはやされるようになったのだろう。山上憶良(やまのうえのおくら)は〈春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日(はるひ)暮(くら)さむ〉と詠んだ▼自宅近くの公園には紅白の梅が咲き誇っていた。その傍らには桜の木があり、早くも花を一輪二輪とつけていた。玉縄桜(たまなわざくら)という名のその品種は、聞けばソメイヨシノを親に持ち1970年代に育成が始まったという。早咲きの新顔である▼いまや桜の代名詞となったソメイヨシノも、明治以降、その華やかさが好まれて広がった。万葉の時代からの美があり、近代以降の美がある。日本の風景は時代により姿を変えてきた▼まだまだ「春は名のみ」かもしれぬが、季節は少しずつ移ろう。先が見えず変化の激しいときだからこそ、暖かな日の訪れをゆっくりと待ちたい。
(天声人語)藤村俊二さん死去
2017年2月3日05時00分
早稲田大学で演劇を学ぶものの、退屈だからと中退してしまう。ヒョイッと。気に入らないことがあると、いつの間にかいなくなるから「オヒョイさん」のあだ名がついたそうだ。俳優の藤村俊二さんが82歳で亡くなった▼おもしろいこと、好きなことを見つける自由人の素質は、小さいころからあった。幼稚園では、いたずらが過ぎて園長から「毎日来なくていいのよ」と言われた。戦時下で空襲警報のサイレンを係官の目を盗んで鳴らし、大変な騒ぎになったとも著書にある▼ダンサーとして欧州公演に加わったが、本場にはとてもかなわないと感じ、思い立ってパリでパントマイムを学んだ。帰国してからは振付師、俳優の道を歩む。ひょうひょうとした雰囲気で、テレビや映画に欠かせない存在になった▼よく来る仕事は「いてもいなくてもいいように見える、自己主張しない役」だと著書で述べている。目立たないことが逆に存在感を生む不思議な役者だった。映画「ラヂオの時間」では伝説の音声マンを演じた。口数少なく効果音をこしらえる姿が、どのシーンよりも泣けたのを覚えている▼あせる、急ぐ、競い合うことから一線を画すのが、この人の美学だったのだろう。ふわりと軽やかな生き方が板についていた。暑くてもジャケットを着こなし、ワインバーを開いて料理から内装まで好みを通した▼願わくばこんなふうに年をとれれば。そう感じさせる人だった。いまごろはヒョイッと雲の上を歩いていることだろう。
(天声人語)フレッド?コレマツの抵抗
2017年2月2日05時00分
にわかに耳にするようになったアメリカ大統領令である。日米開戦のすぐ後に出された大統領令9066号は、スパイ行為を防ぐとして、西部の日系人12万人を強制収容所へと追いやった。彼らは住み慣れた土地から引きはがされ、生活の糧を失った▼責任者の軍人は日系人全体を危険視し「ジャップはしょせんジャップだ」と述べていた。それに抵抗したのが日系2世の若者、フレッド?コレマツだった。偽名を使い、目を整形手術して逃げようとしたが逮捕された。最高裁まで争ったが、有罪は覆らなかった▼1983年になってようやく、コレマツの罪は晴れた。このときの公判で彼は訴えている。「政府に誤りを認めてほしい。人種や宗教や肌の色で、アメリカ人があのような扱いを再び受けることがないように」▼グーグル米国版の検索画面に先月末、コレマツの似顔絵が登場した。背景には桜の花と、収容所の建物があしらわれている。イスラム教徒を狙い撃ちにするような入国制限で混乱が起きるなか、日系人の悲劇を思い起こしてほしいとのメッセージだろう▼権力が不安をあおり、証拠もないのに一部の人びとを敵と見立てて排除する。いま、似たような過ちが繰り返されていないか。歴史の教訓を再び思い起こす必要がある▼亡くなる前年の2004年、コレマツは新聞に投稿している。「少数者への恐怖と偏見を呼び覚まし、誇張するのはいとも簡単なことだ」。警告がいまも有効なのが、もどかしい限りである。
(天声人語)昆虫型偵察機の誘い
2017年2月1日05時00分
英米が合同作戦により、無人攻撃機で上空からテロリストを殺そうとする。機体を操縦するのは、現地ケニアからはるか遠い米国にいる兵士である。公開中の映画「アイ?イン?ザ?スカイ」は、最新技術が支える現代戦の一断面を描いている▼作戦のカギを握るのは現地から送られる鮮明な映像である。ハチドリ型や昆虫型の超小型偵察機が飛び回り、屋内にいるテロリストの顔まで映し出す。映画のなかだけの話だと思ってはいけない▼防衛省が大学や民間から募る研究テーマの一つに、「昆虫あるいは小鳥サイズの小型飛行体」がある。手のひらに収まり、消費電力が低くてすむ技術がほしいという。一体どんな使い方をするのだろう▼「安全保障技術研究推進制度」というこの仕組みの予算が、2017年度から大幅に増額されそうだ。研究費不足にあえぐ大学の鼻先に、ニンジンをぶら下げるようなものである。科学者でつくる日本学術会議は検討委員会を設けて、軍事研究とどう向き合えばいいのかを議論している▼技術を持つ側には安全で効率的でも、持たない側には苛烈(かれつ)となる戦争の現実がある。高度な技術がもたらす風景を想像する力が求められている▼敗戦から5年後、科学者の有志が、戦争につながる一切の動きに反対するとの声明を出した。いま読んでも古びてはいない。「われわれは研究資金の交附(こうふ)、就職の機会の増加、其(そ)の他の誘惑によって戦争準備に協力することが、如何(いか)に危険であるかをも知っている」