その黄色は「咲いている」というより「光っている」と表すのが似つかわしく思われた。東京西郊の神代(じんだい)植物公園を先日訪ねたら、福寿草が盛りで、冬ざれの残る地面にカナリア色が散っていた。多くの人が膝(ひざ)を折ってカメラを向けている▼鉢植えの正月花でおなじみだが、野のものは今ごろが花どきになる。風はまだ冷たく、武蔵野の雑木林は裸の枝を空に投げている。色の乏しい季節への贈り物のような黄金色。日だまりに寄り添う家族を思わせる咲き姿が、どこかしら温かい▼〈ひかり受け嬉々(きき)と咲きたる福寿草母なる大地に褒められたのか〉伊勢谷伍朗。思えば冬から早春にかけて、目につく花は黄色が多い。マンサクもそう。ロウバイの透き通った黄もよく咲いていて、甘やかな香を鼻の先へ流してくる▼春黄金花(はるこがねばな)の名があるサンシュユも蕾(つぼみ)を開きかけていた。個々は控えめなこの花は、浅い春の定まらなさを警戒する風情だ。だが遠からず樹木全体を見事な黄で包むことだろう▼美人画の鏑木清方(きよかた)が「きいろい花」という小随筆を書いていた。田舎で目にする菜の花や蒲公英(たんぽぽ)といった黄色い花こそ、憂いを知らぬ春の姿を宿していると大家はほめる。桜もいいが、黄色の系譜がなければ、春を待ち、春を喜ぶ心は寂しくなるに違いない▼寒さのぶり返しに、古人は「冴(さ)え返る」という美しい言葉を与えた。しかし今年は、その前提になる春らしさがそもそも乏しい。黄色い花々の北へのリレー、そろそろ足を速めてほしいが。