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第一部 日语语法概说補説

来源:庭三郎 作者:日语港 时间:2010-02-14 阅读:6899

第一部   補説

§0-1「日本語」について
§0-2「文法研究」の考え方
§0-3 言語・記号・意味
§0-4 文法・文
§0-5「単語」について  「助詞」「助動詞」「接辞」
§0-6 品詞分類表 
§0-7 助詞の分類
§6 補語の立て方

 ここで、本文では省略してしまった基本的ないくつかの問題について述べる
ことと、各項目の補足的な説明をします。


§0-1「日本語」について
 この本は、「現代日本語文法概説」という名前にしましたが、この「現代日
本語」というのは何を指すのかということについて一言。
 一般に「日本語」というと、何のことわりもなく、東京方言を指すことが多
いのですが、それは現在の「共通語」あるいは「標準語」として東京方言が使
われているというだけのことで、多少なりとも言語学的な視点をもって書かれ
るべき本では、「日本語の文法」として、東京のことばだけを対象にして、何
ら不思議に思わないのは正しくないというべきでしょう。岩手のことばも、沖
縄のことばも、共に「日本語」であることは誰も否定できないでしょうから。
 むろん、実際には、すべての方言を同等に記述することは、このような本で
は無理ですし、東京方言を記述するのは、「前書き」にも書いたとおり、いち
おう理由があるのですが、そこで、ほんの少しでもそのことを振り返って考え
直してみることが必要だと思います。すべてを東京中心に考えてしまわないた
めに。
これは、ただ便利だから、という理由で英語を世界共通語とすればいいと考
えたり、外国語として学ぶことばが英語にばかり偏ってしまったりすることと
共通した考え方がその底にあります。
 言語は、それぞれの地方で独自の文化と共に育ってきた大切なもので、かん
たんに取り換えたり、捨ててしまったりできないものです。強いもの、中心的
なものを選び取って、効率を重視して済む問題ではないのです。では、方言や
「世界共通語」の問題をどうすればいいのか、というのは、かんたんに答えの
出ることではありませんが。


§0-2「文法研究」の考え方
 私は、文法研究の考え方として次のようなことを考えています。
 文法研究は、人間の頭の中にある「文法」を記述することが目標なのですが、
その完全な形をそのまま研究対象とするのは、相手が大きすぎて難しい面があ
ります。そこで、次のような、何らかの点で「不完全な」文法を考えてみます。

 1 子どもが自分の母語を習得していく際には、どのような段階を経ていく
  のか。子どもは、発達の段階で、文法習得が不完全な状態でも、周りの人
  間とどんどん情報伝達を行っている。その際の文法はどのようなものか。
  (第一言語習得の問題)

 2 外国語(第二言語)を習得する際には、どのような順序で文法を学習し
  ていくと効率的か。その文法はどのような形で記述されるべきか。学習者
  は、多くの場合、不完全な文法のままその言語を使用する。その文法はど
  のようなものか。
  (第二言語習得の問題)

 3 人工知能が言語を使えるようにするためには、どのような文法を与えた
  らよいか。人工知能に与えられる文法は、どのみち不完全なものである。
  それでも、一通りのコミュニケーションを行うためには、その文法はどの
  ようなものでなければならないか。
  (自動言語処理の問題)

これらは、目標となる完全な文法の不完全なモデルを、それぞれの段階で作
っていきます。それぞれ、その「不完全さ」には違いがあるでしょう。
 以上の中で、第二言語習得のための文法記述ということを考えながら、この
本を書きました。


§0-3 言語・記号・意味 
 日本語は世界に数千もあると言われる言語の中の一つです。
 そして、その「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が
築き上げてきた「記号の体系」です。  
 記号とは、ある形式(感覚でとらえられる形)を持ち、それにある意味(頭
に思い浮かべる何か)がついているものを言います。かんたんな例としてよく
あげられるのは交通信号です。道路にあって、三色が一つの組(体系)になっ
て、赤は停止、青は進行可能、黄色は注意を表すという意味を持っています。
 言語は、音声や文字、手話などの形式によって意味を表す記号体系です。

 記号は実際に使用されることで、機能を果たします。記号の使用者が、その
記号を使うことによって、その記号の持つ意味を他の人(その記号の意味を理
解する人)に伝えます。
 しかし、記号自体を発するだけでは、何らかの「情報」が伝わったことには
なりません。ここで言う「情報」とは、それによって人が何かを判断したり、
行動したり、考えたりするために使われうるもの、とします。かんたんに言え
ば、「何かの役に立つもの、それが情報である」ということです。

 たとえば、ある人が「イヌ」とポツンと言っただけでは、それを聞いた人は
その言葉をどう解釈していいかわかりません。「イヌ」という「単語の意味」
はわかっても、それを話し手が口にすることによって、何を伝えようとしたの
かがわかりません。イヌがいたのか、イヌに気をつけろということなのか、そ
れがわからないと、この「イヌ」という言葉は、「情報」としては「意味がな
い(何も伝わらない)」と言わざるを得ません。
 例えば、「イヌと猫とどっちが好きですか?」と聞かれて、「イヌ。」と言
ったのなら、これは「イヌが好きだ」ということを表しているのだと理解され
ます。(ここで、「。」を付けてあることに注意してください。この句点は、
「イヌ」という言葉が、文として、ある情報として成り立っているということ
を示すことにします。)

 このように、言葉を使う際には、「何かが伝わる」こと、そのように言うこ
とが求められます。そしてそのためには、ある場面、ある文脈(それまでの話
の流れ)があって、それにあった形で言葉を使わなければならない、というこ
とです。
 しかしまた一方で、場面・文脈を離れても成り立つ「意味」というものがあ
ることも事実です。たとえば、道に落ちていた紙切れに、

     向こうで和夫が待っている。3時までに行ってほしい。 健一

と書いてあったとします。これを拾ったあなたは、「向こう」とはどこなのか、
「和夫」「健一」とは誰なのか、「3時」とはいつの3時なのかわからなくて
も、ある「意味」をこの文から読みとることができます。それは、「健一」と
いう人が誰かに「和夫」に関するある情報を伝え、ある行動をとることを求め
ている、ということです。
 このメッセージの本来の受け手である誰かは、これを読んで何らかの行動を
とるでしょうが、偶然拾って読んだだけのあなたは、何もしようがありません。
しかし、あなたがこの紙切れから読みとった「意味」は、本来の受け手が読み
とる「情報」の中核的な部分であることは間違いありません。

 これを場面から切り離された「文の意味」と考えます。ここで定義した「文
の意味」は、実際の言語使用の中から抽出される、多少とも抽象的なものです。
 先ほどの「イヌ。」との違いは、素材となる形式が単語でなく、述語と補語
の完備した、「文」としての内部構造を持った形式だということです。単語は、
場面・文脈の支えがあれば、「文」としての機能を果たす(ある情報を伝える)
ことはできますが、場面・文脈を離れると、あるまとまった情報を表せません。
道に落ちていた紙切れに、「いぬ」と書いてあっただけでは、何もわかりませ
ん。

そもそも、それが「犬」を表す単語を書いたものかどうかもあやしいわけです。
 「文の意味」とは、単語の寄せ集めではない、文脈を離れても何らかの、人
から人へ伝わるあるまとまった情報を持つような形式の意味、とします。


§0-4 文法・文
 文法は、文を作るための法、つまり規則のことです。
 そこで、文法を考えるためには、まず文の定義つまり「文とはどのようなも
のか、どういう形式を持っているのか」ということから考えなくてはなりませ
ん。
 上に述べたような「情報」の一まとまり、単位が「文」です。言い換えると、
文とは、人が何らかの情報の伝達、あるいは(聞き手を必要としない)単なる
表出(心に思ったことを外に出す)の際に、一つのまとまった情報として区切
れるような、情報の単位です。

 文には2種類あります。述語文と、未分化文です。
 述語文は、述語のある文です。人間は、表したい事柄の内容・性質を考えて、
事柄をいくつかの種類に分け、それぞれに適当な述語を使って表現します。
 「事柄の種類」というのは、ものとものとの関係か、ものの性質か、ものの
動きか、などです。
 それを表す述語には、名詞述語、形容詞述語、動詞述語の3種があります。

 述語文は、一つの事柄を全体的に未分化なままで表すのではなく、述語と補
語の組み立てによって分析的に表します。具体的な例は、次の「文の成分」の
ところで出します。

 未分化文とは述語のない文で、感動詞だけの文や、名詞およびそれを修飾す
る語句がつけられた文などです。「あら!」「はい。」「きれいな花!」など
が未分化文の例です。

 述語文は、話し手が聞き手に伝えたい情報(あるいは、聞き手を意識せずに
自然に出てしまった言葉)を一つのまとまりとして表しています。
 未分化文もある情報を持っているので、情報の一つの単位としてみとめるこ
とができますが、前に述べたように、文脈を離れると、その意味内容がはっき
りしなくなることがあります。

 およそ術語の定義の方向には二つあります。一つは意味・内容からで、もう
ひとつは形式からの定義です。
日本語の文とは、これこれの意味を持ったまとまりである、というようなの
が前者の例で、聞いた時にはそれなりになるほどと思いますが、それだけでは、
文と文でないものを迷うことなく分けることはできません。「意味を持ったま
とまり」あるいは「まとまった意味」というものをきちんと定めることができ
ないからです。
 「断片的な意味」と言えそうな例。

     ほら、これ。
     あ、飛行機雲!
     え?ほんと?うっそー!

 これらのどれを「文」とするか、すべてを文と見なすか、あるいはすべてを
「完全な文」とは言えないとするか、判断の分かれるところです。

 また、次のような場合もあります。
     私もそう思っていた。現場を見るまでは。

 この例は、一つの文が「倒置」されたとも言えますが、言い方によっては二
つの文と考える必要もあります。

 次は、文の終わりを示す句点「。」を使うべきか、文の途中の切れ目を示す
読点「、」を使うべきか迷う例。

     ええ。そうですねえ。そうかもしれませんが・・・。でもねえ・・・。
(ええ、そうですねえ、そうかもしれませんが・・・、でもねえ・・・。)

以上のような例をどう考えるかは、「文」を、多少とも抽象的な理論の中の
単位と考えるか、実際の言語使用の中で決めることができなければならない単
位と考えるか、という理論的な考え方の問題に関係してきます。

文を、しっかりした内部構造を持つ、実際の言語使用から抽象された理論上
の単位と考えると、上の「あ、飛行機雲!」のような例を「不完全な文」とし
て退けることがあります。文は述語を中心とし、補語(特に「主語」)をとも
ない、テンスやムードなどを備えたもの、となります。

 それに対して、実際の言語使用を重要視すると、「あ、飛行機雲!」のよう
な例は「一語文」「未分化文」「未展開文」などと呼ばれ、立派に文の一員と
して認められます。「補語-述語」の構造を持ったものは、「述語文」「分化
文」などと呼ばれて、その構造により詳しく分類されます。

 文をその内部構造の面から考えると、述語や補語(特に「主語」)の存在が
重要になりますが、伝達という面から考えると、断片的であっても何らかの情
報が伝わりさえすれば「文」と言える、ということになって、その構造よりも
「伝達の単位」であることの重要性が強調されます。

 文を、実際の発話の「後ろ」にある、静的な、個別の構造の壮大な体系の一
つの単位、と考えると、しっかりした内部構造を持つものとして考えたくなり
ます。これは、どちらが正しいか、という問題ではなく、それぞれの立場の違
い、目標の違いと考えるべきでしょう。


§0-5「単語」について
 単語の定義の問題は、文の定義とはまた少し違った面があります。文の定義
は人それぞれであっても、そのことが大きな議論の焦点になるということはあ
まりないようですが、単語の定義は、はっきりと対立した立場があり、そのど
ちらをとるかで単語というものに対する考え方が大きく違ってきます。
その大きな違いは、助詞や助動詞をどう考えるかという点です。
 学校文法では、助詞と助動詞は「付属語」です。付属語というのは、単独で
発話できないものです。(ここで「文節」という独特の用語が使われるのです
が、そのことは省略します。)「まで」とか「ようだ」とかはふつう言えませ
ん。(ただし、「だろう?」などと言うことは時々ありますが)
 その助詞の問題をまず考えます。格助詞は名詞に付けて使われますが、それ
を名詞の一部と考えてしまうことができます。動詞が活用するように、名詞も
語尾が変化すると考えるわけです。

本が 本を 本に 本と 本から ・・・

これらすべて、一つの単語の変化形と考えるのです。そしてまた、これらは文
の構成要素となります。

 学校文法(橋本文法)では、文の構成要素を単語とはせず、「文節」という
中間的な単位を考えます。その構成要素となるのが単語です。

 それに対して、格助詞を名詞の一部と考える立場では、単語は文の直接の構
成要素になります。

 これは、日本語の中で議論しても、どちらもそれぞれの根拠があるので、決
着が付きません。言語学の一般的な方法として、他のさまざまな言語も考慮す
るとどちらが適切か、という話になります。ヨーロッパの言語、特にドイツ語、
ラテン語などを考えると、それらの名詞屈折語尾と同様に考えることの利点が
でてきます。

 ただし、格助詞を単語として認めず、単語の一部としてしまうと、副助詞も
またそうなります。すると、次のような格助詞の重なりも、格助詞と副助詞の
重なった形も皆「一語」と認めることになります。

     三日までが(忙しい)
     彼だけからは(受け取った)
彼女にさえも(言わない)

 結局、名詞の内部構造の議論が複雑になってしまいます。これまでの、複合
名詞、接頭辞・接尾辞などによる問題以外に、助辞(格助詞・副助詞などと呼
ばれてきたもの)の接合のしかた、その意味などを「語構成論」の中で取り扱
わなければなりません。

 次に、助動詞の問題です。いわゆる助動詞をほとんど認めず、単語以下の接
辞と見なす立場があり得ます。この本もそれに近く、いくつかは動詞の活用形
の一部(活用語尾)、いくつかは活用する接辞としています。(活用・活用形
については「21.活用・活用形」を見てください)

 以下は学校文法で助動詞とされているものです。この本での扱いを右に付記
しました。

   せる・させる(使役)                        接辞
   れる・られる(受身)                          〃
れる・られる(可能・自発・尊敬)              〃
たい(希望)                                 〃
   たがる(希望)                                〃(たい+がる)
   ます(丁寧)                                  〃
   だ(断定)                                  助動詞(後述)
です(丁寧な断定)                          助動詞(後述)
   ない(打ち消し)                            接辞
   ぬ(ん)(打ち消し)                          〃
   た・だ(過去・完了など)                    活用語尾
   そうだ(推量・様態)                        接辞
   らしい(推量)                              助動詞
   ようだ(推量)                                〃
   そうだ(伝聞)                                〃
   う・よう(意志・推量)                      活用語尾
まい(打ち消しの意志・推量)               接辞

 助動詞としたのは、その前の述語が独立できる形となるものです。例えば、

     降るらしい

は「行く」+「らしい」となり、「行く」はそれだけで独立できる形です。そ
れに対して、

     降りそうだ

では、「降り」の形が独立できる形ではないと考えるのです。(ただし、「雨
が降り、風が吹く」のような場合もあるのですが、それはまた別の用法と考え
ます。ちょっと苦しいところですが。)

 一つの問題は「だ・です」の扱いです。これらは名詞につく助動詞としてお
きますが、「コピュラ」(連結詞?)のような名前を付けて新たな一品詞を作
ってしまう、という選択肢も考えられます。上の表にはありませんが、「であ
る」も同様に考えます。(学校文法では「である」は「で」(「だ」の活用し
た形)+「ある」と分析します。)

 最近の文法書では、形式名詞に「だ・です」のついた形を助動詞と見なすこ
とがあります。

     はずだ  わけだ  ものだ  ことだ 

これらは「ムード」を表す形式として「第二部」で扱います。

なお、「助動詞」という名称は、「補助的な動詞」つまり動詞の一種だとい
うことでしょう(英語では Auxilialy Verb です)が、日本語では、上の例を
見てもわかるように、「られる・させる」などの他はどう見ても動詞の仲間と
は言えません。むしろ、「動詞(述語)を助ける要素」と解釈したほうがよさ
そうです。


[接辞]
 単語より小さい単位の一つについて少し説明しておきます。「接辞」と呼ば
れるもので、例えば次のようなものです。

   不-/無-/非-  不自由な、無理解、非文法的
    お-/ご-     お勉強、ご研究
    超-/新-     超高速、新発明 
    -化/-的/-形/-中    自由化、絶対的、受身形、食事中
    -ぶり/-おき   3日ぶり、3mおき、
    -さ/-み     重さ、重み
    -がる       うれしがる

 それ自体では独立した単語となれず、他の単語について意味を加えたり、文
法的性質を変えたりする(重い→重さ、自由な→自由化する)ものです。
 この本で述語の活用形としたものの一部には、語幹に接辞がついたものと考
えた方がよいものがありますが、この本では便宜的に活用表の中に並べておき
ました。

     食べ-ない   なぐr-areru   食べ-させる

 これらの接辞は、「学校文法」では助動詞とされているものです。


§0-6 品詞分類表 
 この本の品詞分類は、基本的に学校文法のものです。その分類の基準を示し
た表を国語辞典の付録から写しておきます。この『学研新国語辞典』は、付録
で学校文法をきちんとした形で述べているので、便利なものです。

品詞分類(『学研新国語辞典』による)
┌─基本形がウ段 ・・・・ 動詞
┌─活用が・単独で述語│
   │  ある    になる    ├─基本形が「い」・・・・ 形容詞
│          (用言)  │
│                    └─基本形が「だ」・・・・ 形容動詞
┌─自立語│   
│        │        ┌─主語になり  ・・・・・・・・・・・  名詞
│        │        │ うる(体言)           
│        └─活用が│
│            ない  │                    ┌─主として ・・ 副詞
│                  │          ┌─修飾語│ 用言修飾    
│                  │      │  になる│
│                  │       │     └─体言だけ ・・ 連体詞
単語│                  └─主語にな│            を修飾        
│                      れない  │
│                              │          ┌─接続語 ・・ 接続詞
│                              └─修飾語に│  になる
│                                  ならない│
│                                          └─独立語 ・・ 感動詞
│                                              になる

│        ┌─活用がある ・・・・・・・・・・・・・・・ 助動詞
└─付属語│
└─活用がない  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 助詞 

§0-7 助詞の分類
 次に、学校文法の助詞の分類を別の国語辞典から写しておきます。この表は
例語が多くのせられていて、副助詞や終助詞など参考になります。


助詞の分類(三省堂『例解新国語辞典』による)
       ┌─格助詞・・・・が、を、に、へ、で、と、の、から、より、まで、をば
├─並立助詞・・・・か、と、や、やら、だの、たり、なり、とか
   助詞─┼─準体言助詞・・・・の
        ├─接続助詞・・・・が、し、て(で)、と、ば、から、つつ、ては(では)、
              ても(でも)、なら、なり、ので、のに、ゆえ、くせに、
      │   けれど・けれども・たって(だって)、ながら、ものの、ところが、ところで
├─副助詞・・・・は、も、か、こそ、さえ、しか、すら、でも、だけ、のみ、など、
              まで、かも、きり、しも、ずつ、だの、とか、なら、ほか、
│      ほど、くらい(ぐらい)、ったら、ってば、なんて、なんか、ばかり、どころか
└─終助詞・・・・か、かい、かな、かしら、と、さ、ぜ、ぞ、って、ったら、ってば、
              とも、な、なあ、ね、ねえ、の、もの、ものか、や、よ、よう、わ

 「準体言助詞」の「の」というのは、この本では「形式名詞」に入れておい
たものです。並立助詞の「たり」は、この本では活用語尾としました。

§6 補語の立て方
 補語の立て方は本によってかなり違います。この本では比較的素朴な、わか
りやすい立て方をしたつもりですが、どうだったでしょうか。他の本を読むと
きのために、多少補いをしておきます。ここは「補足説明」ですので、わから
ないところがあってもかまいません。読み飛ばしてください。

A.「主体」はかなり大まかなものです。もう少し狭くして、「動作主」とか
 「仕手(して)」という名前で、意志的な動作、あるいはもう少し広く一般の動
 きの主体を示すことがよくあります。「動作主」と対立するのは「経験者」
 で、「階段から落ちる」とか「人が驚く」という場合の「Nが」です。意志
 的な動作ではないからです。あとの例を「感情の主体」として「動作主」と
 は別にすることもあります。

  さらに意味中心の立て方をすると、「ガラスが割れる」などの「Nが」を
 「対象」とする考え方になります。「ガラスを割る」の「Nを」と一貫した
 名付けをしようというわけです。実際の場面では「ガラス」の「役割」は同
 じで、「割る」か「割れる」かは表現者のとらえ方の違いだと考えるからで
 す。世界の言語の中には、このような「ガラスが」と「ガラスを」を同じ形
 で表す言語があるそうで、そのような言語を含めて、世界の言語の構造を統
 一的に説明しようとする場合、魅力的な分析法になるわけです。

B.「対象」を「Nを」だけに限ることがあります。そうすると、この本で 
 「対象」とした「Nに」は「相手」などと呼ぶことになります。「相手」は
 基盤の怪しい補語で、「到着点」などと一緒にしてしまったほうがすっきり
 するのかもしれません。

C.この本では、補語を考える際に三つの点を考慮しました。

  ① どんな格助詞を使うかということ。「Nが」「Nを」など。
  ② 述語に対してどんな意味関係かということ。「主体」「対象」など。
  ③ その名詞自体の意味分類を考えること。[ひと][もの]など。

 これとは違った考え方もあり得ます。特に、③をどの程度考慮するか、どこ
 まで細かく分けるかでずいぶん違ってくるでしょう。


D.この本では文の基本構造を「補語-述語」と考えましたが、それを

    主語-(目的語)-述語

 とする考え方があります。主語とは「Nが」で、目的語とは「Nを」と、対
 象・相手の「Nに」です。格助詞の中で特に「が、を、に」を重要視して、
 他の格助詞とは別扱いをするのです。

  「主語」は英語の文法などでは特別に重要なものです。英語で、疑問文の
 作り方(You will~:Will you~)や、いわゆる「三単現の -s (do:does)」
 などさまざまな文法現象を考えると、その重要性がわかります。

  しかし、日本語ではそれほど重要なものではありません。文には必ず主語
 がある、(特別な例外や「省略」は別として)という主張がありますが、そ
 れは、述語の主体が意味的に必要なだけであって、文法的(構文論的)には
 それほど重要ではない、という反論があります。

  「主体」のところで紹介した「Nで」や「Nから」をどう考えるか、「対
 象」の「Nが」や、「部分」「側面」の「Nが」はどう扱うか。また、ある
 種の「Nに」を「主語」に入れるべきだという論もあり、「主語」とは何か、
 というのはかなり議論のある問題です。

  この本では「主語」ということばを使いませんでした。日本語では、文の
 成り立ちを知るために重要なのは「主語」よりも「主題」です。概念のはっ
 きりしない「主語」を使わず、形としての「Nが」と、意味的な「主体」の
 二つを使って説明ししてきました。それでかえってわかりにくくなったとこ
 ろもあるかもしれませんが。

E.補語に関して「役割」という言い方をしましたが、専門用語としては「格」
 という言葉がよく使われます。「格助詞」の「格」です。この用語の使い方
 には諸説あり、めんどうなので使わないことにしてしまいました。!

   ここで、「補足」という形で少し説明しておきます。まず、補語の「形」
 として「格」という用語が使われます。「Nが・Nを」などをそれぞれ、

     ガ格、ヲ格、ニ格、ヘ格、デ格、カラ格、・・・

 と呼ぶこともあります。
  そのような形だけの呼び名でなく、文法的な役割を含んだ呼び名として、

     主格、目的格/対象格、与格、位(置)格、方向格、具格、・・・

 という呼び方もあります。「与格」というのは「相手」の「に」などで、位
 格というのは「所に」です。「人にコトがデキル」などの「に」も位格とさ
 れます。「具格」というのは「道具・手段」の「で」です。

  それから、もっと意味的な格の立て方もあります。「主格」を分解して、
 「動作主格」「経験者格」としたりします。この考え方については、前にも
 触れました。

  意味的な格は細かい違いを言いやすいので、説によって、「に」や「で」
 など用法の多い格助詞の用法をいくつに分けるかがかなり違ってきます。
    
F.基本述語型の述語は、いくつかの補語をとりうるわけですが、同じ種類の
 補語をとることは非常にまれです。同じ種類の補語は、一つの述語に対して
 一つだけ、という原則があると考えられます。仮に「同格一個の原則」(三
 上章による)と呼んでおきます。

  例えば、次の文はまちがいです。同じ種類の補語が二つあるからです。

    ×リンゴをみかんを食べた。
    ×銀行へ郵便局へ行った。

  このような場合、同じ種類の補語は「と」などで結んで一つの名詞句にし
 ます。そうすると、補語としては一つになります。

     リンゴとみかんを食べた。
     銀行と郵便局へ行った。

 次のような例はあり得ます。

     まずリンゴを、それからみかんを、最後にいちごを食べた。

 この場合は、一つの動詞「食べた」に三つの補語があるのではなく、

     まずリンゴを食べ、それからみかんを食べ、最後にいちごを食べた。

 の二つの動詞「食べ」が省略されているものと考えます。もちろん複文です。
 「まず・それから・最後に」という副詞が示すように、これらは三つの、別
 々の動作(事柄)を表していますから。これらの副詞を省いて、

     リンゴを、みかんを、(そして)いちごを食べた。

 とすることもできなくはありませんが、かなり修辞的な文体という感じがし
 ます。それにしても、やはりかっこの中の「そして」はあった方がいいでし
 ょう。この「そして」によって起こった事柄の順番が示されています。

G.場所の「で」のところで、「で」が重なる例がありました。

     その問題は、この本では第二章で扱っています。

 この場合、「本で」のほうを「範囲」としました。ちょっと問題の残る解決
 法かもしれません。「この本の第二章」という関係の二つの名詞の場合は、
 同じ種類の補語が二つ、でもいいのかもしれません。

  時の補語の場合も、似たようなことが起こります。次の例を見てください。

    (1990年3月6日に、ある珍しい放電現象が北海道で観測された。)
     1991年には、3月1日と9月9日に同じような現象が起こった。

  この「には」はどう考えたらいいでしょうか。「時」以外ではありえませ
 んから、やはり同じ補語が二つ使われている、としか言えません。「同格一
 個の原則」の例外です。「原則」には例外がつきものです。

H.次の例もちょっと考えさせられました。

     へびは体が長い。

 「長い」に対して、「へび」も「体」も主体と言えそうです。この二つの名
 詞は「へびの体」という「部分の関係」にあります。このような場合のため
 には、前にも述べたように、「側面」という補語をたてておきます。それで
 問題解決なのかどうかは怪しいです。 

     法律はこれを遵守すべし。

 このような「これを」は例外扱いするしかありません。

I.最後に、名詞文の「主体」について。これについては、結局、どう考えた
 らいいかわかりません。動詞文の主題は、補語が「主題化」されたものと言
 えますが、名詞文の場合は最初から主題で、「Nが」が「Nは」に主題化さ
 れたものとは、どうも考えにくいのです。

形容詞文の場合は、性質や感覚の持ち主としての「主体」という補語を考
 えることができます。その場合の格助詞は「が」しかありません。

「名詞述語」というのも、あらためて考え直すと、ちょっと怪しいところ
 があります。別の分析の可能性としては、「だ」が二つの名詞を補語のよう
 なものとしてとる、という分析が考えられます。その場合でも、この二つの
 名詞の役割は、動詞文や形容詞文の補語とはかなり違ったものと考えるべき
 でしょう。

した。


I.抽象的な方向・移動
 主体の対象に対する動作も、抽象的な移動と考え、主体から発し、対象にと
毒ものと考えると、出発点・到着点として解釈することができます。同じ意味
で、原因も出発点になります。時間の始点と終点も同じ枠の中で考えると、ほ
とんどの(必須)補語が「初め」と「終わり」と見なすことができます。

初め          終わり
動作の方向  主体          対象・相手
           人が          物を     壊す  
            (働きかけ)
           人が          人に     物をあげる
(対象の移動)
   因果関係   原因          結果の事実
           地震で         停電に   なった  
時      始点      中   終点
           2時から        3時まで    勉強する 
                       3時で   止める  
   場所

 しかし、ここまで抽象化することは、この本のような記述的文法には必要の
ないことかもしれません。

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