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ロマン――古賀様を追悼する集いのために

来源:日语港 作者:日语港 时间:2016-07-14 阅读:4136

ロマン

――古賀様を追悼する集いのために

趙 平

《日语口语惯用句听读与欣赏》录音下载(其中有部分朗诵是古贺先生的朗诵的):https://yunpan.cn/OcBWddMfQxS4kK  访问密码 914e

2004年の早春。

まだ厳しい寒さが残っている春空のもと、吉林大学の異文化交流シンポジウムに出席した。二日間のシンポジウムを無事に終えて、夕方の汽車で連雲港市へ帰るため荷物を片付け始めた。汽車の時間までにはまだしばらくあるので、ノートパソコンを立ち上げて文章を書き始めようとしたその時だった。

突然、誰かが背後から右肩胛骨の下にナイフのような物をブスッと刺し込んできた。その瞬間は痛みというものではなかった。わけがわからない衝撃だった。私は息が止まり、空気を吸い込むことさえできずに床に崩れ落ちた。気が少し遠くなった。

仰向けに倒れた私は、すぐ意識が戻り激しい苦痛に堪えながら刺した犯人を目で探していた。

誰もいなかった。カギがかかっていなかったらしく、隙間風がドアから流れ込んできた。犯人はそのまま逃走したのだろうか?

私には聞こえなかったが、ドーンと重い原木の椅子の床に倒れる音が部屋中に響いたらしく、隣室にいた若手教師の劉波先生が、椅子の倒れた音を聞いたのか、ドアを押し開いて飛び込んできた。

「どうされました?!」床に倒れている私を見て叫んだ。そのとき何故か、私は彼女の顔が真っ青だなと思った。

「刺されたようだ…」私は歯を食いしばりながら辛うじて声を絞り出した。

すぐ救急車が来て、私は病院に搬送された。

意外にも急性胆嚢炎と医師に診断された。もう終わりかと思われた激痛であったが、鎮痛剤が劇的に効いた。痛みが和らいだので、そのまま劉波先生に介護されながらタクシーで駅へ行き、汽車に乗り込んだ。

寝台に横たわり、妙に暑いなと体温を計ったら38.5度だった。電話で知人に病状を訴えると、胆嚢炎でも命を取られることもあるんだぞと言われたので、連雲港市に着いた翌日、早速病院勤めの知り合いの外科医に頼んで、まずはレントゲンを撮ってもらった。

レントゲン室の前で待つこと1時間。レントゲンフィルムが現像された。知り合いの外科医は私を室内に招き入れ、「腰掛けて待っていてください」と言った。そして、もう一人の中年の検査技師と共にレントゲンのフィルムをチェックしようとしたところへ、突然電話が掛かってきた。「しばらく待つように」と外科医は一言言い残し、そそくさと出て行ってしまった。レントゲン室には私と、入れ違いに入ってきたフィルムを見る検査技師だけになった。

検査技師は私のことを医師だと勘違いしたのか、大きな封筒からフィルムを出して蛍光灯の前にフィルムをかざし、目を細めてそれを見ると、「こいつはもう助からないぞ!」と私の同意を求めるように振り向きながら言った。

その瞬間のことをどう言えばいいだろう。「えっ!」と思いつつも、反発する気持ちがあった。

「そうなの?どこが?」私はできるだけ冷静な口調で聞いた。

「ばりばりの末期癌だよ。ほら、卵みたいな大きさになって胸骨の後ろから顔を出しているじゃないか」

「ふーん」

「かなり進行が早く、血液の補充が間に合わず癌の真ん中は壊死してるだろう。ほら、右胸に胸水が一杯溜まって右肺にまで小さな穴が空いてしまってる」

遠くに黒々と広がる死の海が見えたような気がした。もはやこれまでかとも思った。しかし、私はその気持ちを顔に出さず、「そうだね」と、いかにも分かっているふりをして、さりげなく尋ねてみた。

「この様子じゃ、余命はどれぐらいだろうね」

「俺の経験によれば、治療を受けてもせいぜい半年かな…」

『と言うことは、俺、十数年分も生き延びてきたわけか、儲けたなぁ…』私は心の中でそう思った。

戻ってきた知り合いの外科医はずっと厳しい顔をしていた。彼はフィルムを見ながら、手術などはすでに意味がなく、即座に化学治療か放射線治療を受けなければだめだと勧めた。

それでも私が冷静を装えたのは一回目の癌宣告をすでに受けていたおかげだった。

二十代の時初めて癌が見つかったが、大きな手術と化学治療でなんとか一命を取り留めた。その後、癌の再発の悪夢にうなされながら幸運にも四十代まで生き延びてきたのだ。

『癌が再発したのでは!?』と繰り返される悪夢はいつの間にか私の心に固い防護壁を作り、大事小事を問わず何事にもびくともしない強靱な精神を作り上げたのかも知れない。

私はその日、家に帰って遺言状を作成した。その目的は、とにかく手術を受けたいという願いを知ってもらうことにあった。遺言と言っても財産など特に持たない私にとって、手術台でくたばったところで自己責任であり、手術してもらう医者の責任なんぞ求めないという書き置きだった。その日、知り合いの外科医は事情を知ってからずっと厳しい顔をしていた。彼はフィルムをみてから一貫して手術などはすでに意味がなく即座に化学治療か放射線治療を受けなければならないと繰り返し勧めたのだ。

しかし、私の再三再四の懇願を受け入れ、外科医はしぶしぶと手術を承諾してくれた。

それから、事は私の希望通りに進展した。入院して三日も経たないうちに私は手術台に上り、まな板の上の鯉の心境で開胸手術を受けたのである。

後で分かったことだが、肋骨を二本外して胸を切開したところ、癌はもはや心臓と繋がる大静脈の周りに這いつくばり、その大静脈の中側にも入り込んでいて、きれいに切除できなくなっていた。外科医はそういう場合の通例として次の選択に切り替えた。つまり、切除できるところを切り、切除できないところを温存し、後は放射線治療に切り換えるという判断だった。

外科病棟で一週間、まだ傷口が塞がっていないうちに腫瘍病棟へ移され、X線メスという放射線治療を受けることになった。主治医も知り合いの外科医の知人で、三十代そこそこの若者だった。病室の天井を絶望的な眼差しで一日中ジーと見ている他の患者と違い、放射線を浴びる合間合間に大学に戻っては教壇に立っていた私を哀れに思ってくれたのか、通常の量を遙かに超えるモルヒネ錠剤を処方してくれた。

「痛いとき、一錠の半分だけ飲みなさい。気をつけてよ。飲み過ぎないようにね…」彼は錠剤の作用を説明しながら注意してくれた。

「へえー!それって違反でしょう!私の自殺でも手伝う気ですか?医者として身の破滅に繋がりますよ」。私はからかった。

「いやー、趙さんみたいな、何というか、末期癌になってもびくともしない人間に出会ったのは生まれてこのかた初めてなんだ。そこまで腹を括った男は逆に自殺なんか絶対にしないよ。信じていますよ!」

「でも、麻薬中毒ということもあるでしょう。万一、癖になって止められなくなったらどうします?ずっと処方してくださいますか」

「いや、癖になるなんて二の次だよ。今のところ考えなくていいよ」

「なら、正直に教えてください。余命はどれぐらいありますか?」

「どれぐらい欲しいの?」

「できれば、六百年くらい、いただきたいものですね」

「それはまず、生物学的には無理だろう」

彼はまじめに答えた。

「正直、僕の経験では、運が良ければ六ヶ月間というところだろうか」

六ヶ月間は半年だ。半年で何ができるだろうか。私は考えた。

そうだ、教科書が一冊書けるかも。虎は死して皮を留め、人は死して名を残すのではなかったか。

ありがたいことに、放射線治療はそれほどの苦痛ではなかった。何故なら、若いときに経験した化学治療はあまりにも悲惨で、人間の精神そのものをどん底まで押しつぶし、地獄の阿鼻叫喚を覗かせるようなものだったが、それと比べれば、放射線治療は全く楽なものだったから。確かに食道が腫れ上がり、水をちびちび飲んでいても火傷するほどの痛みだったが、それ以外、軽い目眩や吐き気だけで済んでいた。

善は急げ。私は放射線治療の合間に、点滴を受けながら、教科書作りをスタートさせた。

その結果、私はさらに変わった。もやもやした気持ちはきれいにすぐ消えた。ただただ教科書作りに没頭する、それだけだった。私は癌というものの存在すら時々忘れた。深夜まで書き続けていると、腫瘍病棟の廊下から、三時か四時頃お決まりのように誰かの歌うような号泣が聞こえてきた。

放射線や漢方などの治療が、かれこれ四ヶ月も続いた。医者から「これ以上放射線を浴びれば、癌じゃなくて放射病で死ぬぞ」と言われたとき、やっと教科書のゲラ刷りが出版社から送られてきた。その教科書を『日本語会話への挑戦』と名付けることにした。

あたかも「天は自ら助くる者を助く」という格言を証明するかのように、教科書の執筆をしている間、癌は不思議とずっと大人しかった。

そして、教科書の上梓とともに私は退院した。

死んだつもりで、今まで勉強してきた蘊蓄を注ぎ込もうと頑張ったお陰か、教科書は案外好評だった。そして、いつの間にか「録音が欲しい」という読者からの要望が殺到した。

文字を綴るぐらいなら私の守備範囲だが、音声はお手上げだ。日本の友人を何人か持ってはいるが、日本語が喋れることと日本語で演出することとは全く次元の異なるものだ。ネットを通して東京のとある「朗読会」にも依頼してみたら、ありがたいことにすぐ録音を送ってくれた。しかしそのCDは年寄のガラガラ声の上に棒読み、ヒヤリングの材料としては残念だがちょっとどうか、というものだった。窮余の策として、私は留学していた時の指導教官だった伊藤茂先生に録音を斡旋していただけないかとお願いしてみた。意外にも二つ返事で引き受けてくださった。一ヶ月後、CDが届いた。聞いてみたらたちまちその音声の虜になってしまった。「素晴らしい!」の一言だった。

何が素晴らしいかというと、その音声といい、朗読の演技といい、今までの教科書では聞いたことのなかった一流のものだった。数十人の参加者の中で、会話の部分の先生役を演じる男性の声と、学生役を演じる女性の声が抜きんでていた。問い合わせたところ、どうやら伊藤先生は大学のアナウンスクラブの学生達とベテラン俳優を二人頼んだということだった。先生役を演じた男性は定年退職した俳優であり声優でもある古賀勝行さんで、学生役を演じた女性は現役の俳優、森畑結美子さんだった。

声からすると、古賀さんは身体の大きな男性だと思えた。その教科書で勉強していた中国の教え子の言葉を借りて言えば、古賀さんは「磁石のように人の心をぐいぐいと引き付け、深海に連れて行くような声」で、森畑さんは「がさついた気持ちをすっぽり包み込み、優しく慰めてくれるような声」の持ち主だった。

その時から、いつかお二人にお目に掛かりたいものだと思った。

『日本語会話への挑戦』が評判を生み、私が退院して間もなく出版社の注文が相次いだ。これを音声付きのシリーズにして、「更に三巻書いてくれないか…」と。味を占めて気を良くしていた私は気軽にその注文を引き受けたが、心のどこかで録音のことが気になってならなかった。もう一度、伊藤先生にお願いしようかと思ったが、教科書をあと三巻も執筆して録音しなければならない。仏の顔も三度までという諺もあるので、この前の録音が伊藤先生にどれだけご負担をお掛けしたのかを確認しなければならないと思った。そこで、私は他に手を回して、どれぐらいお金が掛かったのかを調べてもらった。すると、なんと驚いたことに、収録に参加した人々は全員ボランティアであったが、伊藤先生は自費で交通費や食事代だけでも40万円ぐらい払ってくださった、ということだった。

月収5、6万円程度の私には、教科書一冊で40万円は、負担しきれない金額だった。伊藤先生にこの先、「次の本は?」とたとえ言われても、先生にお頼みするのは一度だけだと思った。そこで、私は役者の録音を諦めて、同じ大学で働いていた日本人教師の阿部先生や新井先生、浦田先生に頼み、さらに北京留学中の阿部先生の教え子達にも来てもらうことにして、録音を試みた。

録音は5月の連休明けからはじめ、収録自体は順調に進んだが、なにせ素人集団だけにまさに「本の棒読み」という有り様だった。おまけに5月という初夏の季節でもあり、蝉の鳴き声が雑音となった。ぎりぎりまで録音を編集し、ファイルとともに出版社に提出した。出版社からは何も言ってこなかったが、気持ちは憂鬱だった。

やはり教科書に相応しい録音には、玄人による演技が必要だと思い知った。とはいえ、他に打つべき手がなかった。

そうこうしているうちに、出版社からまた教科書作りの依頼が降ってきた。しかし、何事も一つ上を味わったらもう後戻りできないものだ。それが、一つ上どころか、まさしくプロの古賀さんや森畑さんなどの朗読に魅了されていた私には、善意には感謝するものの、どう考えてもその録音には我慢できなくなった。よし、有り金をはたいて日本へ行き、古賀さん達に吹き込みをお願いして、良い教科書を作ってみようじゃないかと腹を括った。私は伊藤先生に古賀さんのメールアドレスを教えていただき、古賀さん宛にメールを送ってみた。

すぐ返事が来た。一度教科書の吹き込みで楽しませてもらったから、森畑さんに連絡してまた楽しませてもらおうじゃないか、というような短い文面だった。

「やったあ!」と私は飛び上がらんばかりに喜んだ。

それにしても、教科書の中の登場人物は十数人で若者の役が多く、二人だけの声ではまかなえない。せっかく日本へ録音しに行くのだから、チャンスを利用して、できるだけ多くの役者に出演していただきたいものだと、さらに願望が募った。

しかし、そんな若者には全く当てがなかった。また伊藤先生を通して大学のアナウンスクラブに依頼する手もあったが、当時伊藤先生は副学長の職にあり、多忙極まりなく私との連絡もままならなかった。副学長の立場で頼めば、学生達は嫌でもやらざるを得ないだろうが、ひょっとしたら職権乱用という批判も浴びかねない。あれこれと思案していたが、さっぱりいい案が浮かばず途方に暮れていた。

そんな折、私の悩みを神様が見てくださっていたのだろうか。ある日本人の紹介で、東京の劇団NLTの若い役者達を知ったのだった。何とかしたいという強い願望はきっと天にも届くのだろう。若い役者達には学生役、古賀さんと森畑さんは先生役をお願いしようと思った。

メールのやりとりで分かったことだが、古賀さんは定年になってから、奈良の近くの今井町という所で「六斎堂」というカステラ店を経営し、カステラの製造と販売で生計を立てていた。今井町は大阪の鶴橋で近鉄線に乗り換え、大和八木駅で降りる。右側の出口を出て200メートルほど歩くとすぐの町だと教えていただいた。

約束の日に日本へ飛んで行った私は、古賀さんに送っていただいた手書きの地図を片手に六斎堂を訪ねることにした。

近鉄線で小一時間、駅を出て少し先へ進むと皇室の家紋らしい菊のマークの付いた橋が見えてきた。橋の横に大きな木が一本、侘しく佇んでいた。橋の下には深い堀があり、小川がちょろちょろと流れていた。水は透き通っていたが、珍しく魚は泳いでいなかった。ぎょろぎょろした目つきのサギが一羽、小川の中に映る自分をジッとにらんでいた。橋の上に立って数分間、サギを観察していたが全く動く気配がなく、かわいそうに小魚どころか小エビにさえありつけそうもないなと同情しながら、また先へぶらぶら歩いていった。

小川の右手には、静かな町が眠ったように広がっていた。町の中に入ると、一瞬タイムスリップしたかのような町並みだった。まるで江戸時代がそのまますっぽり包んでいるようだった。周りはすべて古民家だった。表札を読むと、文化財らしい建物が点在していた。路地が狭いので、街路樹の並木もなかった。おまけに人の気配もなく、猫や犬の姿さえも見あたらなかった。まさにガランとした町だった。カステラ屋の所在を誰かに尋ねるすべもなく、縦横に走る小道を足に任せて歩いて行った。すると突然、前方に鮮やかな黄色の旗が目に飛び込んできた。「六斎堂」の三つの文字が翻っている。古賀さんのカステラ店だ。

近づいてみると、六斎堂は木造建築の平屋で、店幅は五メートルにも満たない、いかにも小さな店だった。店は閉まっているようだったが、正面の引き戸は半分開いていた。左横の文具屋は、店は開いているものの、客どころか店員の姿さえ見えなかった。店の中には筆や紙などの文具がきちんと並べてあった。

私は六斎堂の引き戸に近づき、「ごめん下さい」と声を掛けた。

「ごめん下さい」と声を掛けると同時に引き戸も叩いたかも知れない。記憶は引き戸に近づいた情景までは鮮明だが、それから引き戸を誰が開けてくれたのか、中に入ってからの古賀さんや森畑さんとの初めての出会の様子や挨拶などは、今いくら頑張っても思い出せない。

私は15歳の時、崖から真っ逆さまに転落して頭が岩に直撃した。脳みその一部がその時に飛んでしまったそうで、今でも脳のてっぺん辺りに陥没と欠損がCTスキャンで確認できる。当時は一ヶ月の入院で一命を取り留めたものの、その後の人生はずっと脳挫傷による重度の記憶喪失に悩まされていた。記憶を取り戻すために、私は最初に英語、それから日本語を頑張って勉強した。おかげで、表面的には普通の人間に戻ったようだったが、何故か物事をしっかり覚えられる時と、いくら頑張っても物事が跡形もなくすっかり記憶から欠落してしまう時とが共存していて、自分でも頭の構造があの一撃で二つに分裂するように組み直されたのではないかと思ったりしている。悔しいことに、古賀さんと森畑さんとの出会の情景は「跡形もなく、すっかり記憶から消される」方に分類されたのだろう。

もっとも、それに対する私なりの言い訳もあるにはある。つまり、私はその後の十数年の歳月の間に数十回日本へ飛び、六斎堂で古賀さんと森畑さんのお世話になったが、その都度その都度、記憶はあたかも消しゴムと鉛筆の関係のように、次々と前の記憶が消されては上書きされて来たのだ。

六斎堂を訪ねた時の行動パターンはいつもほぼ同じだった。私の訪問とともに店じまいになり、部屋に入ると簡単な挨拶をしてから早速に録音を開始する。途中で今井町の名物に表彰された六斎堂のカステラのおやつとお茶やコーヒーをいただく。録音終了後、カステラのおみやげをいただいて、近くにある学生相手の食堂へ歩いて行きご馳走になる。それから、森畑さんと一緒に近鉄線で鶴橋へ行き、鶴橋で「さようなら」する。今井町へ行くと、十中八九、そのパターンの繰り返しだった。

古賀さんは私の好きな醤油顔だったが、その「磁石みたいに人の心をぐいぐいと引き付ける声」からして大男と思いきや意外にも小柄であった。子供の時からチビだとよくからかわれた私よりやや高いだけだった。ある映画の中で校長先生を演じているのを観たが、この小柄な体格でどうやってあのように普通の身長に見せられたのか不思議でならなかった。とはいえ、インテリ風で眼鏡の奥の眼差(まなざ)しは確かに校長先生らしく、優しい雰囲気を漂わせながら威厳も感じられた。きちんと整えた口ひげには清潔感が漂っていた。初対面であるにもかかわらず初対面の気がしなかったのは、その声を長いこと聞き慣れていたからだろう。

森畑さんは、ドラマや舞台で森鴎外のお母さんなど、よく母親役に出演している女性だった。古参俳優にしては、声から想像した年齢とほとんど変わらぬほど若くてきれいな人だった。ぱっちりした瞳に人の心を見透かしたような光を湛え、口角を歪めて笑い話をするときの表情も魅力的だった。彼女は演劇をしながら大学の先生もしていたからだろうか、話はユーモラスで機知に富んでいた。一度NHKの連続テレビ小説『風のハルカ』のお母さん役として出演した時、森畑さんは「よーし、最後まで頑張るぞ」と気合いを入れたが、そのお母さんが突然病気で亡くなるという展開のお陰で出番もぷつりと切られてしまって、ガクンと肩を落としたこと等を、いかにも舞台で演技しているように身振り手振りを交えて話されていた。古賀さんやカステラを包んでいた奥さんまでもが、彼女の話を聞いて私と一緒にゲラゲラ笑いころげた。

「まさに趙さんの辞書に書かれているように、『吉凶は(あざな)える縄の如し』だね」と、古賀さんは笑いながらコメントを付け加えた。

辞書と言えば、当時の私は十数年の年月を掛けて『日本語慣用句分類学習辞典』を作っており、教科書と同じように老人の声の吹き込みは古賀さんに頼んだ。今年(2016年)二月に日本へ行き、「近頃は最年長だと言われてよく挨拶させられる。命長ければ恥多しだよ」の一句だけを吹き込んでいただいて、その辞書を仕上げた。

古賀さんのところへ録音しに行くと、六斎堂は半日ほど閉店せざるを得なかった。そもそも奈良県にある今井町という昔風の町は、国の重要伝統建造物保存地区に指定されているが、古都、奈良の陰に隠れてあまり知られていないらしく、訪れる観光客の少ないところのようだ。

そこで、迷惑を最小限に抑えるために、私はできるだけ一回で全部の録音を済ませるように内容を組んだ。ぶっつけ本番だったし、みっちり時間を詰めたので、録音が終わると、古賀さんや森畑さんのみならず、収録を担当する私まで心身ともにへとへとになってしまう。そのためか、録音を仕上げた夕方は決まって一緒に近くにある食堂へ行き、かなり遅くまでビールや日本酒を飲んで(私はウーロン茶で)リラックスさせて頂いた。「趙さんのお陰で森畑さんに会えたから飲まなきゃ」という古賀さんらしい気遣いまで添えてくださった。

そんなとき、古賀さんや森畑さんはアルコールでいっそう心がほぐれるようで、必ずと言っていいほど演劇の話題に花を咲かせた。顔を真っ赤にして熱心に語り合う二人の横で、しらふの私はいつも蛤のように口を固く閉ざし、黙ったまま聞き耳を立てていた。一生懸命に話の内容を理解したにもかかわらず、演劇の話になると私の日本語のヒヤリング能力が急激に衰え、およそ五分の一しか聞き取れなかった。私も負けじと一度、教科書を吹き込んでくださるきっかけは何かと話題を断ち切ろうとしたことがあった。

それに対する古賀さんの答えにより、私の知らなかった一幕があったことを教えられた。ある日、私の大学院時代の指導教官である伊藤先生がお二人と音響技師の宮本さんを訪ねて来て、こう頼まれたのだという。「教え子の一人が末期癌で命の危機に瀕している。それでも、けなげなことに我を顧みずに教科書を作っている。最後の励ましをしてあげたいんだ。彼の作った教科書の録音に協力してやってくれないだろうか」と。お二人は伊藤先生の殺し文句に胸を打たれ、即答でその仕事を引き受けたが、やってみるとこれが意外にも面白く、ついつい楽しんでしまった、そうだ。

「その死に掛けたかわいそうな張本人が、今ぴんぴんと元気でウーロン茶を飲んでいるじゃないか。…酒が飲めないのが残念だけどなぁ」と古賀さんは朗らかに笑った。私は、何故か顔から火が出るようで、全身火照って恥ずかしくてたまらなかった。

三年前の冬休みに私は中国科学技術大学出版社の三巻からなる『持ち歩く日本語』の録音のために六斎堂を訪ねた。その日の録音はあまりにも多かったので、予定通りに終わらせることができなかった。またもう一度六斎堂にお邪魔するのはどうかと思い、できれば夕食後に森畑さんが帰られてから、私は古賀さんの家に泊まり込み、残った録音を完成させていただきたいとお願いした。今度も古賀さんはすんなりと承諾してくださった。ところがその日、森畑さんとの話がよほど楽しかったのか、古賀さんも森畑さんもビールだの焼酎だのをぐいぐい飲み、しまいには二人ともぐでんぐでんになってしまった。森畑さんがふらふらしながら電車で帰った後、私は古賀さんと一緒に今井町の近くにある古賀さんのもう一軒の古い家にお邪魔した。古賀さんは千鳥足で歩きながらずっとしゃべっていたが、ロレツが回らなかった。午前零時になったし、これからの吹き込みは無理だろうと判断して、部屋に上がるなり「録音は次回にしましょう。今日はお休みになって…」と勧めた。しかし古賀さんは「大丈夫、大丈夫。次回って来年だろう。来年だといろいろともったいない。そもそも来年のことを言えば鬼が笑う。最後の踏ん張りだ。やろうじゃないか。細工は流々仕上げをご覧じろだよ」と言い張った。このロレツの回らない状態では、たとえ録音しても使いものにならないだろうと思った。が、古賀さんの頑固さに負けて、一応ダメ元のつもりで録音設備をセッティングしてみた。ところがいざ録音になると、古賀さんは酒のニオイをぷんぷん漂わせながらも、瞬時にいつもどおりの歯切れのいい発音に戻ったのだった。さすが年期の入ったベテランだけある、と内心大いに舌を巻いた。

吹き込みは、その日の朝方の四時まで続いてやっと最後の一句となった。

「次の句で最後ですよ」と私は伝えた。

「ふん。これで仕上げか」と古賀さんはほっとしたようにテーブルに置いてあった冷めたお茶をゴクゴクと飲み干してから、再び情緒たっぷりに朗読した。

「美しい若人は自然のいたずらです。しかしながら、美しい老人は人間の努力です」

その最後の一句を吐き出してから、古賀さんは身体をゴロンと畳の上に横たえたかと思うと鼾を部屋中に響かせていた。

私は布団を押し入れから引き出し、熟睡している古賀さんに掛けた。そして、こっそりと隣りの部屋へ行き、同じように服を脱がずに横になった。

ウオーーン、ウオ、ウオオーーンと犬の遠吠が聞こえてきた。

今年の二月、私はまた日本へ録音に行くことにした。外国語研究出版社の『致用日本語』と外国語教育出版社の『日本語慣用句分類学習辞典』の仕上げの録音のために…。とはいえ、『致用日本語』の録音は初級なので、若者の出る場面が多く、劇団NLTの若者達の出演だけで十分だった。『日本語慣用句分類学習辞典』で録音し残したのは、前述の「命長ければ恥多し」の一句だけだった。特に古賀さんにお頼みしなくても良かったのだが、私は今井町へ行って、古賀さんと森畑さんにお会いしたくてたまらなかったのだ。私の訪問が古賀さんと森畑さんが会う機会にもなると言われたお二人の言葉にも甘えたかった。私は吹き込んでいただく材料として、去年書き下ろした文章の一つ、「ロマン」を事前にメールで古賀さんに送っておいた。森畑さんにも「森畑」という名の登場人物の会話をわざわざ作り依頼した。

約束の日に森畑さんと近鉄の阿倍野橋駅で落ち合うことにした。土地勘のない私は、遅れてはいけないと40分も早く阿倍野橋駅に着いた。退屈しのぎに、いつものように作成途中の『持ち歩く日本語』のMP3をイヤホンで聴いていた。

「『人間』の『間』という字を広辞苑で調べると、説明の六番目あたりに『めぐりあわせ』とありました。これはとても大切な発見でした。人生というのはめぐりあわせの連続です。そう思えばね、起こることすべてが良き人生の機縁になるんじゃないでしょうか」

その一段落まで聞きながら口ずさんでいると、天王寺駅の向こうから森畑さんが急いでやって来て「お久しぶり」と簡単な挨拶を交わした後、二人は改札口を入って、電車に乗り込んだ。

各駅停車なのでガラガラに空いていた。座席に座って、「ご主人、お元気ですか」と尋ねる。

「はい。お陰様で」

二年ぶりだったのに、森畑さんの人を魅了する声は変わらなかった。

「ここ二年の間に古賀さんに会ったことがありますか」

「いいえ、ありません。いつも趙さんのお陰で会えたんですから」

「ありがとうございます。そう言っていただいて嬉しいです。で、古賀さん、お変わりなくお元気でしょうか」

ほんの一瞬の沈黙だった。言い知れぬ不吉な予感が胸を横切った。

森畑さんは少し躊躇しながら口を切った。

「実は古賀さんから連絡がありました」

「はい?」

「肺癌です、古賀さんは」

「??!!」

返す言葉に詰まった。私は森畑さんの目を直視することができず、顔を背けながら車窓の向こうの、後ろへ後ろへとよぎる民家の屋根屋根を呆然と眺めていた。屋根の間から差し込んできた鈍い光が、タバコの火のように瞬間瞬間に網膜に焼き付くような気がした。

「早期ですよね?」

やっと我に返って聞いた。

「いいえ、末期です」

「手術は?」

「断ったみたいです。覚悟はしていた、治療はしない、あるがままに自然に寿命を終えたいって…」

森畑さんの声は、あたかも遠くから波に乗ってきた破片のようにとぎれとぎれにしか聞こえなかった。ガタンガタンと鳴る車輪の音だけが響いていた。心の底から、えも言われぬ怒りと苛立ちのようなものがモコモコと込み上げてきた。

話の接ぎ穂がなく、会話は続かなかった。

駅を出て今井町に入ると、相変わらず人気のないがらんどうの街道だった。早春だからだろうか緑は少なく空気がどんよりと淀みちりちりと肌を刺したが、不思議と肌寒さは感じなかった。

角を一つ曲がると、六斎堂の黄色い旗が遠くから目に飛び込んできた。日に焼けたのか二年前より少し色あせたように見えた。

森畑さんに先に六斎堂に入っていただいた。どういう風に挨拶したらいいか分からなかったからだ。一通り森畑さんの挨拶が済んでから、私は奥さんにおみやげを渡して部屋に上がった。

古賀さんは少し痩せていて白髪も増えたものの、外見上は昔と何の変わりもなかった。湯飲みと急須を出してお茶を入れてくださった。ただ、昔のようなきびきびした動きはなくなっていた。

癌はかなり大きくなっているらしく、肺を圧迫するようになり、呼吸もままならない、薬で痛みを抑えている等々と、古賀さんは他人事のように落ち着いた口調で語った。

私は、プリントアウトしたエッセー「ロマン」の原稿を開き、ところどころに朱を入れた場所を見せて確認した。

それから設備をセッティングし、「今から録音させていただいていいですか」と聞いた。

「うん。いいよ」

古賀さんは一つ深呼吸をした。

私は六斎堂に入るまで録音を実行するかどうかずっと迷っていた。しかし、古賀さんの病状を聞いてから、無理をしてでも古賀さんの声を収録させていただきたい気持ちに変わっていた。ひょっとしたら今回が古賀さん最後の吹き込みになるかも知れないと思ったからだ。

古賀さんは原稿を広げた。まず『日本語常用慣用句分類学習辞典』の残った一句を読んだ。

「近頃は最年長だと言われてよく挨拶させられる。命長ければ恥多しだよ」

いつもと全く変わらぬ魅力的な声がひしひしと胸に迫り、私の心を吸い付けて青い海に深く深く連れて行かれるような気がした。

狭い和室に古賀さんの元気な声が抒情に満ちあふれ木霊(こだま)していた。

こうして、エッセー「ロマン」に入ったのだった。

ロマン

仕事に行く。会議に参加する。宿舎に帰る。昆布と白菜の漬物でお茶漬けを掻き込む。キーボードを叩く。そうこうしているうちにハッと我に返る。もうクリスマスイブだ。一年は矢の如く過ぎ去っていく。今まで準備してきた物事が計画通りに進まずイライラする。

追いつ追われつの日々には、気ぜわしいばかりでロマンがない。

今日、仕事の帰りに寮の一階の店先で花束が売られていた。近づいて見ると、どれもこれもプラスチックで作られた花束だった。若い学生達が次から次へと来ては買って行くのを見て不思議に思った。こんなものに金を出すのかと。

私はプラスチックの造花に馴染めない。どんなに華やかに作られていてもニセモノは所詮ニセモノだ。もしどなたかがこのような造花を贈ってくださっても、「お気持ちだけ有り難くちょうだいします」と言うことになるだろう。幸いにして教え子達は、クリスマスイブに私のような老いぼれ教師には造花ですら贈ろうなんていう気も湧かないらしい。クリスマスイブに花というのは、心を寄せている、あるいはこれから心を寄せるかも知れない人に贈るものである。もっとも、この一抱えのプラスチックはひょっとすると二筋の涙のお返しをもらえるかも知れない。

かつて授業で花の話をしたことがある。「もし私がこの世におさらばした時、私の霊前に花を手向けてくれるなら、お金で花輪を買ってくることはご免こうむる。野原でタンポポを摘んできて欲しい」と。野外で摘んだタンポポは野山や谷間の霊気が凝縮されている。造花だと哀悼の意がたちまち地にこぼれ落ちてしまい、工場の油のニオイや焼かれた時のダイオキシンの煙が充満してしまうような気がする。たとえ大金を叩いても、こんなものはさまよっている私の魂には届かないだろう。

プラスチックの花を売る店から見える山の斜面にススキの尾花が揺れている。冬の寒風にさらされて緑の葉っぱはすでに土に帰っているが、細い茎の上にふわふわした白い穂だけが残っている。ロマンの分かる青年なら、山に登ってススキの穂を一抱え持って帰るだろう。それを、心を寄せる彼女にあげて窓際に差してもらったら、部屋いっぱいに穂の温かみが広がるだろう。造花は間もなく埃を被り、劣化もし、みすぼらしくなるに違いないが、ススキの穂の情けの分かる相手なら、春を待つ喜びを味わうことができるだろう。春雨の雨脚が遠のいていく時、尾花の飾られた窓から眺めれば、一面の青々した山々が網膜に飛び込み、クリスマス・イブのあの日、寒風に身を晒しながらも山でススキを摘んでくれた青年の面影が目の前に彷彿として蘇ることだろう。

プラスチックの造花に対する若者の気持ちとススキの花穂に対する私の気持ちは、世代間のギャップと言えるかも知れない。空をゆらゆらと泳いでいく白い雲を見ると、私の脳裏にこのような言葉が浮かんでくることがある。

「白い雲を一筋

曳いてきて君に渡そう。

瞳の奥に沈んだ寂寞を

拭ってもらうために」

今どきの若者なら、次のように唄うのだろうか。

「プラスチックの花を

一束あげよう。

君の喜びをちらっと

盗み見るために」

二つを並べてみると、後者のほうが少しは現代的なニュアンスが込められているようにも思えてくる。

こんなことを感じるのだから、私はもう老年にさしかかったということだ。だから、私にとってロマンとは人為的なものでもなく、また物で換えられるものでもない。そしてまた、ある人に媚びるためではなく、ただそのものに、その時その時の自分の素直な気持ちを込めること。そして、それがたまたま誰かに共鳴してもらえれば、それはロマンと言えるのではないだろうか。

「ロマン」を吹き込んだ後、精も根も尽き果てたように古賀さんは息を深く吸いながら腰を伸ばし、縁側へ行ってタバコを一服(くゆ)らせた。これから帰宅して横になるのだと言って、私と森畑さんと一緒に六斎堂を出た。定番だった食堂はなかった。

人気のない今井町の町外れで古賀さんはいつもと変わらぬ微笑みを浮かべ、何事もない仕草で私達にさようならを告げトボトボと遠ざかっていった。私はその小さくなっていく後ろ姿を心の奥底に深く深く焼き付けた。

その日の夜、私は収録した古賀さんの音声をいち早く編集し、森畑さんに送った。

帰国した翌月の三月二十日、森畑さんから「本日1533分に亡くなられました」と、古賀さんの訃報が入った。また翌日に次のようなメールが来た。

趙様

メールありがとうございました。

今日、古賀さんのお通夜に行ってきました。

縁のある人たち、主に地元の方がたくさん集まっていました。

趙さんに送って頂いた「ロマン」はCDに焼いて奥さんに(趙さんが私に送って下さったメールの文章と共に)お渡ししました。大変、喜んでおられました。

奥さんから、趙さんにメールを打つ事ができないので、くれぐれもよろしくお伝え下さいとのことです。

当日、会葬者に向けて配られた奥さんのメッセージと古賀さんの絶筆を添付致します。

森畑

添付ファイルの古賀さんの絶筆を何度も声を出して読んでから、私はハードディスクに保存してある古賀さんの音声ファイル「ロマン」を探し出しクリックした。灯りを消して、窓越しに星のない空の深みを目線で測った。

32階の私の部屋とほぼ同じ高さの山が窓の外50mのところにある。この土地独特の釣り鐘型の山だ。私はその山を見ていた。部屋の隅々にまで響き渡っている古賀さんの声が半開きのガラス戸から漏れていき、暖かみを帯びてきた春の夜気の中を神秘な光となり山の稜線に沿って流れて行った。黒々と聳え立っていたその山が、おもむろにこちらへ近づこうと動いていた。幻覚か真実か、分からなかった。

「ロマン」の音声とともにもう一つの古賀さんの声が、心のどこかで蜂が羽根を振動させるようにかすかに聞こえてきた。

「これまで実に面白き楽しい人生でした。悔いはありません」と。

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