鲁迅 著 竹内 好 訳鲁迅 著 竹内 好 訳 日语学习港-日语精品课程|日语考试|中国文学|日本文学|中国书画|日本书画 - 日语港

内容导航

鲁迅 著 竹内 好 訳
作者:日语港 发表时间:2010-02-16 浏览:2608

 東京も格別のことはなかつた。上野の櫻が満開のころは、眺めはいかにも紅(くれない)の薄雲のようではあつたが、花の下にはきまつて、隊を組んだ「清国留学生」の速成組がいた。頭のてつぺんに辮髪をぐるぐる巻きにし、そのため学生帽が高くそびえて、富士山の恰好をしている。なかには辮髪を解いて平たく巻いたのもあり、帽子を脱ぐと、油でテカテカして、少女の髪にそつくりである。これで首でもひねつてみせれば、色気は満点だ。 
   
 中国留学生会館の入口の部屋では、本を若干売つていたので、たまには立寄つてみる価値はあつた。午前中なら、その内部の二、三の洋間は、そう居心地は悪くなかつた。だが夕方になると、一間(ひとま)の床板がきまつてトントンと地響きを立て、それに部屋じゆう煙やらほこりやらで濛々となつた。消息通にきいてみると「あれはダンスの稽古さ」ということであつた。 
   
 ほかの土地へ行つてみたら、どうだろう。 
   
 そこで私は、仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発して、間もなく、ある駅に着いた。「日暮里(につぽり)」と書いてあつた。なぜか、私はいまだにその名を記憶している。その次は「水戸」をおぼえているだけだ。これは明(みん)の遺民、朱舜水先生が客死された地だ。仙台は市ではあるが、大きくない。冬はひどく寒かつた。中国の学生は、まだいなかった。 
   
 おそらく物は稀なるをもつて貴しとするのであろうか。北京の白菜が浙江(せつこう)へ運ばれると、先の赤いヒモで根元をゆわえられ、果物屋の店頭にさかさに吊され、その名も「山東菜」と尊んで呼ばれる。福建に野生する蘆かい(=草カンムリに、會。ろかい)が北京へ行くと、温室へ招じ入れられて「龍舌蘭」と美称される。私も、仙台へ来てから、ちようどこのような優待を受けた。学校が授業料を免除してくれたばかりでなく、二、三の職員は、私のために食事や住居の世話までしてくれた。最初、私は監獄のそばの宿屋に泊つていた。初冬のころで、もうかなり寒いというのに、まだ蚊がたくさんいた。しまいには全身にフトンを引つかぶり、頭と顔は着物でくるみ、息をするために鼻の穴だけを出しておくことにした。この絶えず息が出ている場所へは、蚊も食いつきようがないので、やつとゆつくり眠れた。食事も悪くなかつた。だが、ある先生は、この宿屋が囚人の賄いを請負つているので、そこに下宿しているのは適当でないといつて、しきりに勧告した。宿屋が囚人の賄いを兼業するのは私に関係のないことだと思つたが、好意もだしがたく、ほかに適当な下宿を探すより仕方なかつた。かくて別の家に引越した。監獄からは遠くなつたが、お蔭で喉へ通らぬ芋がらの汁を毎日吸わせられた。 
   
 これより、多くの初対面の先生にあい、多くの新鮮な講義を聴くことができた。解剖学は、二人の教授の分担であつた。最初は、骨学である。そのとき、はいつて来たのは、色の黒い、痩せた先生であつた。八字ひげを生やし、眼鏡をかけ、大小とりどりの書物をひと抱(かか)えかかえていた。その書物を講壇の上へ置くなり、ゆるい、抑揚のひどい口調で、学生に向つて自己紹介をはじめた── 
   
 「私が藤野嚴九郎というものでして……」 
   
 うしろの方で数人、どツと笑うものがあつた。つづいて彼は、解剖学の日本における発達の歴史を講義しはじめた。あの大小さまざまの書物は、最初から今日までの、この学問に関する著作であつた。はじめのころの数冊は、唐本仕立(とうほんしたて)であつた。中国の訳本の翻刻もあつた。彼らの新しい医学の翻訳と研究とは、中国に較べて、決して早くはない。 
   
 うしろの方にいて笑つた連中は、前学年に落第して、原級に残つた学生であつた。在校すでに一年になり、各種の事情に通暁していた。そして新入生に向つて、それぞれの教授の来歴を説いてきかせた。それによると、この藤野先生は、服の着方が無頓着である。時にはネクタイすら忘れることがある。冬は古外套一枚で顫えている。一度など、汽車のなかで、車掌がてつきりスリと勘ちがいして、車内の旅客に用心をうながしたこともある。 
   
 彼らの話は、おそらくほんとうなのだろう。現に私は、彼がネクタイをせずに教室へ現れたのを、実際に一度見た。 
   
 一週間すぎて、たしか土曜日の日、彼は、助手に命じて私を呼ばせた。研究室へ行つてみると、彼は、人骨やら多くの単独の頭蓋骨やら──当時、彼は頭蓋骨の研究をしていて、のちに本校の雑誌に論文が一篇発表された──のあいだに坐つていた。 
   
 「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。 
   
 「少しできます」 
   
 「持つてきて見せなさい」 
   
 私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取つて、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持つてきて見せるように、と言つた。持ち帰つて開いてみたとき、私はびつくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあつた。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終るまで、ずつとつづけられた。 
   
 遺憾ながら、当時私は一向に不勉強であり、時にはわがままでさえあつた。今でもおぼえているが、あるとき、藤野先生が私を研究室へ呼び寄せ、私のノートから一つの図をひろげて見せた。それは下膊の血管であつた。彼はそれを指さしながら、おだやかに私に言つた── 
   
 「ほら、君はこの血管の位置を少し変えたね──むろん、こうすれば比較的形がよくなるのは事実だ。だが、解剖図は美術ではない。実物がどうあるかということは、われわれは勝手に変えてはならんのだ。いまは僕が直してあげたから、今後、君は黒板に書いてある通りに書きたまえ」 
    
  だが私は、内心不満であつた。口では承諾したが、心ではこう思つた── 
   
 「図はやはり僕の方がうまく書けています。実際の状態なら、むろん、頭のなかに記憶していますよ」 
   
 学年試験が終つてから、私は東京へ行つて一夏遊んだ。秋のはじめに、また学校に戻つてみると、すでに成績が発表になつていた。百人あまりの同級生のなかで、私はまん中どころで、落第はせずに済んだ。こんどは、藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。 
   
 解剖実習がはじまつてたしか一週間目ごろ、彼はまた私を呼んで、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調でこう言つた── 
   
 「ぼくは、中国人は霊魂を敬うときいていたので、君が屍体の解剖をいやがりはしないかと思つて、ずいぶん心配したよ。まずまず安心さ、そんなことがなくてね」 
    
  しかし彼は、たまに私を困らせることもあつた。彼は、中国の女は纏足(てんそく)しているそうだが、くわしいことがわからない、と言つて、どんな風に纏足するのか、足の骨はどんな工合に畸形になるか、などと私にただし、それから嘆息して言つた。「どうしても一度見ないと、わからないね、いったい、どんな風になるものか」 
   
 ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 
   
 「汝悔い改めよ」 
   
 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、トルストイによつて引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。 
   
 それで思い出したのは、二、三日前にこんな事件があつた。クラス会を開くというので、幹事が黒板に通知を書いたが、最後の一句は「全員漏レナク出席サレタシ」とあつて、その「漏」の字の横に圏点がつけてあつた。圏点はおかしいと、そのとき感じたが、別に気にもとめなかつた。その字が、私へのあてこすりであること、つまり、私が教員から問題を漏らしてもらつたことを諷していたのだと、いまはじめて気がついた。 
   
 私は、そのことをすぐに藤野先生に知らせた。私と仲のよかつた数人の同級生も、憤慨して、いつしよに幹事のところへ行つて、口実を設けてノートを検査した無礼を問責し、あわせて検査の結果を発表すべく要求した。結局、この流言は立消えになつた。すると、幹事は八方奔走して、例の匿名の手紙を回牧しようと試みた。最後に、私からこのトルストイ式の手紙を彼らの手へ戻して、ケリがついた。 
   
 中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。 
   
 「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。 
   
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。 
   
 第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。 
   
 「私は生物学を習うつもりです。先生の教えてくださつた学問は、やはり役に立ちます」実は私は、生物学を習う気などなかつたのだが、彼がガッカリしているらしいので、慰めるつもりで嘘を言つたのである。 
   
 「医学のために教えた解剖学の類(たぐい)は、生物学には大して役に立つまい」彼は嘆息して言つた。 
   
 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。そして、私の写真もくれるようにと希望した。あいにく私は、そのとき写真をとつたのがなかった。彼は、後日写したら送るように、また、時おり便りを書いて以後の状況を知らせるように、としきりに懇望した。 
   
 仙台を去つて後、私は多年写真をうつさなかつた。それに状況も思わしくなく、通知すれば彼を失望させるだけだと思うと、手紙を書く気にもなれなかつた。年月が過ぎるにつれて、今さら改まつて書きにくくなり、そのため、たまに書きたいと思うことはあつても、容易に筆がとれなかつた。こうして、そのまま現在まで、ついに一通の手紙、一枚の写真も送らずにしまつた。彼の方から見れば、去つてのち杳(よう)として消息がなかつたわけである。 
   
 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦(う)まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。 
   
 彼が手を入れてくれたノートを、私は三冊の厚い本に綴じ、永久の記念にするつもりで、大切にしまつておいた。不幸にして七年前、引越しのときに、途中で本箱を一つこわし、そのなかの書籍を半数失つた。あいにくこのノートも、失われたなかにあつた。運送屋を督促して探させたが、返事もよこさなかつた。ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。

 

    东京也无非是这样。上野的樱花烂熳的时节,望去确也象绯红的轻云,但花下也缺不了成群结队的“清国留学生”的速成班,头顶上盘着大辫子,顶得学生制帽的顶上高高耸起,形成一座富士山。也有解散辫子,盘得平的,除下帽来,油光可鉴,宛如小姑娘的发髻一般,还要将脖子扭几扭。实在标致极了。
   
    中国留学生会馆的门房里有几本书买,有时还值得去一转;倘在上午,里面的几间洋房里倒也还可以坐坐的。但到傍晚,有一间的地板便常不免要咚咚咚地响得震天,兼以满房烟尘斗乱;问问精通时事的人,答道,“那是在学跳舞。
    ”
    到别的地方去看看,如何呢?
   
    我就往仙台的医学专门学校去。从东京出发,不久便到一处驿站,写道:日暮里。不知怎地,我到现在还记得这名目。其次却只记得水户了,这是明的遗民朱舜水先生客死的地方。仙台是一个市镇,并不大;冬天冷得利害;还没有中国的学生。
   
    大概是物以希为贵罢。北京的白菜运往浙江,便用红头绳系住菜根,倒挂在水果店头,尊为“胶菜”;福建野生着的芦荟,一到北京就请进温室,且美其名曰“龙舌兰”。我到仙台也颇受了这样的优待,不但学校不收学费,几个职员还为我的食宿操心。我先是住在监狱旁边一个客店里的,初冬已经颇冷,蚊子却还多,后来用被盖了全身,用衣服包了头脸,只留两个鼻孔出气。在这呼吸不息的地方,蚊子竟无从插嘴,居然睡安稳了。饭食也不坏。但一位先生却以为这客店也包办囚人的饭食,我住在那里不相宜,几次三番,几次三番地说。我虽然觉得客店兼办囚人的饭食和我不相干,然而好意难却,也只得别寻相宜的住处了。于是搬到别一家,离监狱也很远,可惜每天总要喝难以下咽的芋梗汤。
   
    从此就看见许多陌生的先生,听到许多新鲜的讲义。解剖学是两个教授分任的。最初是骨学。其时进来的是一个黑瘦的先生,八字须,戴着眼镜,挟着一迭大大小小的书。一将书放在讲台上,便用了缓慢而很有顿挫的声调,向学生介绍自己道:——
   
    “我就是叫作藤野严九郎的……。”
   
    后面有几个人笑起来了。他接着便讲述解剖学在日本发达的历史,那些大大小小的书,便是从最初到现今关于这一门学问的著作。起初有几本是线装的;还有翻刻中国译本的,他们的翻译和研究新的医学,并不比中国早。
   
    那坐在后面发笑的是上学年不及格的留级学生,在校已经一年,掌故颇为熟悉的了。他们便给新生讲演每个教授的历史。这藤野先生,据说是穿衣服太模胡了,有时竟会忘记带领结;冬天是一件旧外套,寒颤颤的,有一回上火车去,致使管车的疑心他是扒手,叫车里的客人大家小心些。
   
    他们的话大概是真的,我就亲见他有一次上讲堂没有带领结。
   
    过了一星期,大约是星期六,他使助手来叫我了。到得研究室,见他坐在人骨和许多单独的头骨中间,——他其时正在研究着头骨,后来有一篇论文在本校的杂志上发表出来。
   
    “我的讲义,你能抄下来么?”他问。
   
    “可以抄一点。”
   
    “拿来我看!”
   
    我交出所抄的讲义去,他收下了,第二三天便还我,并且说,此后每一星期要送给他看一回。我拿下来打开看时,很吃了一惊,同时也感到一种不安和感激。原来我的讲义已经从头到末,都用红笔添改过了,不但增加了许多脱漏的地方,连文法的错误,也都一一订正。这样一直继续到教完了他所担任的功课:骨学、血管学、神经学。
   
    可惜我那时太不用功,有时也很任性。还记得有一回藤野先生将我叫到他的研究室里去,翻出我那讲义上的一个图来,是下臂的血管,指着,向我和蔼的说道:——
   
    “你看,你将这条血管移了一点位置了。——自然,这样一移,的确比较的好看些,然而解剖图不是美术,实物是那么样的,我们没法改换它。现在我给你改好了,以后你要全照着黑板上那样的画。”
   
    但是我还不服气,口头答应着,心里却想道:——
   
    “图还是我画的不错;至于实在的情形,我心里自然记得的。”
   
    学年试验完毕之后,我便到东京玩了一夏天,秋初再回学校,成绩早已发表了,同学一百余人之中,我在中间,不过是没有落第。这回藤野先生所担任的功课,是解剖实习和局部解剖学。
   
    解剖实习了大概一星期,他又叫我去了,很高兴地,仍用了极有抑扬的声调对我说道:——
   
    “我因为听说中国人是很敬重鬼的,所以很担心,怕你不肯解剖尸体。现在总算放心了,没有这回事。”
   
    但他也偶有使我很为难的时候。他听说中国的女人是裹脚的,但不知道详细,所以要问我怎么裹法,足骨变成怎样的畸形,还叹息道,“总要看一看才知道。究竟是怎么一回事呢?”
   
    有一天,本级的学生会干事到我寓里来了,要借我的讲义看。我检出来交给他们,却只翻检了一通,并没有带走。但他们一走,邮差就送到一封很厚的信,拆开看时,第一句是:——
   
    “你改悔罢!”
   
    这是《新约》上的句子罢,但经托尔斯泰新近引用过的。其时正值日俄战争,托老先生便写了一封给俄国和日本的皇帝的信,开首便是这一句。日本报纸上很斥责他的不逊,爱国青年也愤然,然而暗地里却早受了他的影响了。其次的话,大略是说上年解剖学试验的题目,是藤野先生讲义上做了记号,我预先知道的,所以能有这样的成绩。末尾是匿名。
   
    我这才回忆到前几天的一件事。因为要开同级会,干事便在黑板上写广告,末一句是“请全数到会勿漏为要”,而且在“漏”字旁边加了一个圈。我当时虽然觉到圈得可笑,但是毫不介意,这回才悟出那字也在讥刺我了,犹言我得了教员漏泄出来的题目。
   
    我便将这事告知了藤野先生;有几个和我熟识的同学也很不平,一同去诘责干事托辞检查的无礼,并且要求他们将检查的结果,发表出来。终于这流言消灭了,干事却又竭力运动,要收回那一封匿名信去。结末是我便将这托尔斯泰式的信退还了他们。
   
    中国是弱国,所以中国人当然是低能儿,分数在六十分以上,便不是自己的能力了:也无怪他们疑惑。但我接着便有参观枪毙中国人的命运了。第二年添教霉菌学,细菌的形状是全用电影来显示的,一段落已完而还没有到下课的时候,便影几片时事的片子,自然都是日本战胜俄国的情形。但偏有中国人夹在里边:给俄国人做侦探,被日本军捕获,要枪毙了,围着看的也是一群中国人;在讲堂里的还有一个我。
   
    “万岁!”他们都拍掌欢呼起来。
   
    这种欢呼,是每看一片都有的,但在我,这一声却特别听得刺耳。此后回到中国来,我看见那些闲看枪毙犯人的人们,他们也何尝不酒醉似的喝彩,——呜呼,无法可想!但在那时那地,我的意见却变化了。
   
    到第二学年的终结,我便去寻藤野先生,告诉他我将不学医学,并且离开这仙台。他的脸色仿佛有些悲哀,似乎想说话,但竟没有说。
   
    “我想去学生物学,先生教给我的学问,也还有用的。”其实我并没有决意要学生物学,因为看得他有些凄然,便说了一个慰安他的谎话。
   
    “为医学而教的解剖学之类,怕于生物学也没有什么大帮助。”他叹息说。
   
    将走的前几天,他叫我到他家里去,交给我一张照相,后面写着两个字道:“惜别”,还说希望将我的也送他。但我这时适值没有照相了;他便叮嘱我将来照了寄给他,并且时时通信告诉他此后的状况。
   
    我离开仙台之后,就多年没有照过相,又因为状况也无聊,说起来无非使他失望,便连信也怕敢写了。经过的年月一多,话更无从说起,所以虽然有时想写信,却又难以下笔,这样的一直到现在,竟没有寄过一封信和一张照片。从他那一面看起来,是一去之后,杳无消息了。
   
    但不知怎地,我总还时时记起他,在我所认为我师的之中,他是最使我感激,给我鼓励的一个。有时我常常想:他的对于我的热心的希望,不倦的教诲,小而言之,是为中国,就是希望中国有新的医学;大而言之,是为学术,就是希望新的医学传到中国去。他的性格,在我的眼里和心里是伟大的,虽然他的姓名并不为许多人所知道。
   
    他所改正的讲义,我曾经订成三厚本,收藏着的,将作为永久的纪念。不幸七年前迁居的时候,中途毁坏了一口书箱,失去半箱书,恰巧这讲义也遗失在内了。责成运送局去找寻,寂无回信。只有他的照相至今还挂在我北京寓居的东墙上,书桌对面。每当夜间疲倦,正想偷懒时,仰面在灯光中瞥见他黑瘦的面貌,似乎正要说出抑扬顿挫的话来,便使我忽又良心发现,而且增加勇气了,于是点上一枝烟,再继续写些为“正人君子”之流所深恶痛疾的文字。
   
                                  十月十二日。